「富士スピードウェイ」の版間の差分

当時国内に存在していたパーマネントサーキットは数少なく、[[三重県]]にある[[鈴鹿サーキット]]は[[ホンダ]]が所有するサーキットで他の自動車メーカーが自由に使用できず、また当時は二輪レース用のサーキットと思われており、四輪レースにも十分な幅員を持つサーキットが望まれていた<ref>『サーキット燦々』(p326)より。</ref>。また日本初のパーマネントサーキットで、当時は細々と草レースが行われていた[[神奈川県]][[川崎市]]の[[多摩川スピードウェイ]]は、すでに事実上廃止状態であり、また[[高度経済成長]]を受けて周辺に住宅が増えてきており、規模、拡張性ともに問題があった。
 
=== NASCARとの関係 ===
富士スピードウェイ株式会社の前身「日本ナスカー株式会社」は[[1963年]](昭和38年)に設立。その名の通り日本国内における[[NASCAR]]形式のレース開催を目的として設立され、翌[[1964年]](昭和39年)1月にはNASCARとの間で、日本及び極東地域におけるNASCAR形式レースの独占開催権に関する契約を締結した。その後サーキット候補地の選定を開始し、同年6月にはサーキット候補地として[[静岡県]][[駿東郡]][[小山町]]大御神の150万坪の土地を選定し、地権者らとの契約にこぎつける。
日本でサーキット建設の計画が進んでいることを聞きつけた[[アメリカ]]の[[NASCAR]]が、当時日本でレース活動を行っており、のちに[[フォーミュラ1|F1]]の[[シャドウ・レーシング・カーズ]]のオーナーとなるドン・ニコルズをエージェントに売り込みした結果、NASCAR形式のレース開催を目的として設立された、富士スピードウェイ株式会社の前身「日本ナスカー株式会社」は[[1963年]](昭和38年)12月に設立された<ref>『むかし、狼が走った』井出耕也著 P.186</ref>。 
 
翌[[1964年]](昭和39年)1月にはNASCARとの間で、日本及び極東地域におけるNASCAR形式レースの独占開催権に関する契約を締結した。その後サーキット候補地の選定を開始し、同年6月にはサーキット候補地として[[静岡県]][[駿東郡]][[小山町]]大御神の150万坪の土地を選定し、地権者らとの契約にこぎつける。なお、富士スピードウェイの建設用地は99年間の借地権によるもので、建設費用は借入金によるところが大きいが、建設開始後の[[1965年]]に河野が逝去したため、日本ナスカー副社長となった息子の[[河野洋平]]は建設資金集めのために銀行や企業回りをし、非常に苦労する<ref>『サーキット燦々』(p322, p323)より。</ref>。
 
=== 設計と建設 ===
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