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[[File:Mirella Freni 1970.jpg|thumb|ミレッラ・フレーニ]]
'''ミレッラ・フレーニ'''('''Mirella(Mirella Freni''', [[1935年]][[2月27日]] - )は、[[イタリア]]の[[オペラ]][[歌手]]([[ソプラノ]])で、若々しい声質と優れた演技力で評価が高い。彼女のレパートリーは約40ほどの役柄からなり、主に[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]と[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]を中心にしているが、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の『[[エフゲニー・オネーギン (オペラ)|エフゲニー・オネーギン]]』のタチヤーナも含む。[[小澤征爾]]は若い頃、ウィーンでオペラの練習のピアノ弾きをしており、ミレッラ・フレーニと[[ブルガリア]]の[[バス (声域)|バス]]歌手[[ニコライ・ギャウロフ]]の練習の伴奏も担当していた。その後フレーニはニコライと結婚し、二人はしばしば舞台およびレコード録音で共演している。
 
フレーニはイタリアの[[モデナ]]で労働者階級の家庭に生まれた。彼女の母親は[[ルチアーノ・パヴァロッティ]]の母親と同じタバコ工場で働いており、同じ乳母の乳で育ったという。彼女は音楽的才能に恵まれ、10歳でラジオ局の主催したコンクールで『ある晴れた日に』(プッチーニの『[[蝶々夫人]]』)を歌い優勝した。しかし著名な[[テノール]]歌手[[ベニャミーノ・ジーリ]]は、このまま歌手として歌い続けると早晩喉を痛める危険性があると警告し、もう少し歳をとるまで歌うのを中止したほうがよいと助言した。彼女はこれに従い、17歳までステージで歌わなかった。
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1958年、フレーニは[[トリノ]]のテアトロ・レッジオで行われた声楽コンクールでミミを歌って優勝し、演奏活動に復帰した。彼女は1959年-1960年シーズンをネーデルランド・オペラ([[アムステルダム]])で過した。フレーニの名が世界的に知られるようになったのは[[グラインドボーン音楽祭]]で[[フランコ・ゼッフィレッリ]]の演出による『[[愛の妙薬]]』([[ガエターノ・ドニゼッティ|ドニゼッティ]])でアディーナを歌ったことで、彼女は続く1960年から1962年にかけてのシーズンに同地でスザンナ(『[[フィガロの結婚]]』)とツェルリーナ(『[[ドン・ジョヴァンニ]]』)を演じた。
 
1961年には『[[ファルスタッフ]]』のナンネッタ役で[[ロイヤル・オペラ・ハウス]]に初出演、1963年にはゼッフィレッリ演出、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]指揮の『[[ラ・ボエーム (プッチーニ)|ラ・ボエーム]]』で[[ミラノ]]・[[スカラ座]]デビューを果たした。これをきっかけにフレーニはカラヤンに気に入られ、以後多くのオペラや演奏会で共演を重ねた。1965年には、やはりミミ役で[[メトロポリタン歌劇場]]デビューを飾った。
 
1970年代になり、彼女はより重い声質の役柄、特にヴェルディの『[[ドン・カルロ]]』のエリザベッタや『[[オテロ (ヴェルディ)|オテロ]]』のデズデモナ、『[[シモン・ボッカネグラ]]』のアメーリアなどを歌うようになった。