「内村鑑三」の版間の差分

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[[File:Kanzo Uchimura family in 1910 (Removed Halftone).jpg|thumb|right|170px|柏木の自宅前での内村家(1910年)]]
[[File:Kanzo Uchimura in 1912.jpg|180px|thumb|柏木の自宅の書斎での内村鑑三(1912年)]]明治40年(1907年)11月、内村一家は角筈から[[淀橋町]]の柏木に移った。内村の感化された実業家の[[今井樟太郎]]の未亡人ノブの寄付により同年末に内村の活動のための建物を建設し、それが[[今井館]]と呼ばれるようになり、無教会主義キリスト教の本拠になった。明治41年(1908年)6月に『聖書之研究』第百号の祝いを兼ねて、今井館の開会式を行った。
明治42年([[1909年]])秋には、第一高等学校の校長・新渡戸稲造のもとで読書会グループを形成していた学生たちが、新渡戸の推薦状をもって、内村の弟子に入門した。この一団は内村によって[[柏会]]と命名された。10月29日に第一回明の会合を行った。[[岩永裕吉]]、[[金井清 (諏訪市長)|金井清]]、[[川西実三]]、[[黒崎幸吉]]、[[沢田廉三]]、[[膳桂之助]]、[[高木八尺]]、[[田中耕太郎]]、[[田島道治]]、[[塚本虎二]]、[[鶴見祐輔]]、[[前田多門]]、[[三谷隆正]]、[[森戸辰男]]、[[藤井武]]らがメンバーになった。柏会が結成された二年後の明治43年([[1911年]])秋に『聖書之研究』で、読者であれば誰でも聖書研究会に出席しても良いと広告された。そして、同年10月1日に[[矢内原忠雄]]と[[坂田祐]]らが出席した。矢内原は柏会に入し、坂田は[[南原繁]]と別の会を作り、明治45年([[1912年]])1月30日に、[[白雨会]]として発足した。
[[File:Ruth Uchimura.jpg|thumb|right|150px|18歳で夭折した娘ルツ子(1912年)]]