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: フランス人。フランス軍人として[[インドシナ]]、[[モロッコ]]で戦う。以降、傭兵として[[ジンバブエ]]、[[イエメン]]、[[イラン]]、[[ナイジェリア]]、[[ベナン|ベニン]]、[[ガボン]]、[[アンゴラ]]、[[コンゴ民主共和国|ザイール]](現・コンゴ民主共和国)、[[コモロ]]で戦う(主に共産勢力と戦い、フランス政府の暗黙の支持があったと考えられている)。[[ディナール]]の指揮する第6コマンドの戦闘力には問題が多く、ホァーからは無能な指揮官と評されていたが、これは第6コマンドの任務が後方の治安維持が主のため、性質上、ホァーの部隊のような迅速な行動ができなかった誤解からと思われる。ディナールに言わせれば、ホァーは(人実救出を急がねばならない事情もあるにせよ)慎重さを欠き、事実、第5コマンドは戦果と引き換えに死傷率は40%に上っている。決して無能な人物ではなく、大統領の警護隊長という立場で長く[[コモロ]]の実質的支配者となっていた。1995年、コモロで逮捕された後、フランスへ送還され、10ヶ月服役する。晩年は[[アルツハイマー病]]を患っていた。
; [[ジャン・シュラム]](1929年 - 1988年)
: [[ベルギー人]]でマイク・ホアー、ロベール・ディナールなどと共にコンゴで戦う。元々軍人ではなく、地元の裕福な農場主で実業家。第10コマンドの指揮官で「ブラック・ジャック」の異名を持つ。1967年7月、独裁化した[[モブツ・セセ・セコ|モブツ]]政権に、コンゴでの白人資産の接収を危惧し、また部下として苦楽を共にしてきたカタンガ人への迫害が現実のものとなったため、ディナールと組んで、カタンガの元首相チョンべを担ぎあげた傭兵による反乱を起こすが、チョンべが誘拐されて出ばなをくじかれ、反乱は失敗する。なお、ディナールはこの反乱のための武器を運ぶ際、流れ弾で負傷したり、アンゴラで騒動に巻き込まれて足止めされたりして、反乱には参加できなかった。1968年には[[ベルギー]]に帰国するが、コンゴでモブツに反乱計画を漏らそうとしたベルギー人を殺害したとされ、その容疑で逮捕される。保釈中の1969年にベルギーを出国しその後は行方不明となる。その後、1988年にブラジルで死去したと言われている。
; [[コスタス・ジョージウー]](1951年 - 1976年)
: キプロス人。「カラン大佐」の異名を持つ。イギリス軍のイギリス陸軍落下傘連隊に所属し、部隊では射撃の名手として知られるも素行不良で除隊、銀行強盗で服役する。アンゴラ内戦で最初は看護士としてボランティア活動に参加し、この時は周囲からはかなり慕われていたようである。そして[[アンゴラ民族解放戦線]]のために戦う傭兵部隊を率いるようになると、性格の異常さが明白になる。個人的には非常に勇敢であり、恐らく一人で100人以上の敵を倒しているが、指揮官としての能力不足と、残虐で独裁的な性格により、白人傭兵も含む100人以上の隊員を命令無視のかどで処刑しており、結局はこのことが原因で見かたからも見限られ、敵中に孤立してしまった時に救援を得ることが出来ずにアンゴラ政府軍および顧問のキューバ軍に逮捕され、裁判の末に銃殺刑に処された。