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'''張 休'''(ちょう きゅう、205年 - 245年)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の人物。[[呉 (三国)|呉]]に仕えた<ref>三国時代には同名の人物が多くおり、判明しているだけでも、蜀に二名、魏に一名いる。</ref>。[[字]]は'''叔嗣'''。父は[[張昭]]。兄は[[張承 (孫呉)|張承]]。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』「張昭伝」に付伝されている。
 
== 生涯 ==
若くして[[孫権]]に仕えた。張休が20歳頃の時、孫権が呉王になったため、その太子となった[[孫登]]の側近として、[[諸葛恪]]・[[顧譚]]・[[陳表]]と共に採り立てられた(孫権が即位し、孫登が皇太子になると、彼等4人は太子四友と呼ばれた(「呉主五子伝」)。)。張休は父から『[[漢書]]』の講義を受けていたため、孫権に見込まれて孫登に『漢書」を講義するよう要請された。『呉書』によると、張休の発言が全て筋道立っていたため、孫登は張休に対して君臣の礼を超えた友誼を示したという。後に中庶子となり、右弼[[都尉]]となった。
 
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一方で、新たに太子となった[[孫和]]の妃が姪であったため、張休は孫和と[[孫覇]](魯王)の対立([[二宮事件|二宮の変]])に巻き込まれるようになっていった(「孫和伝」)。
 
[[241年]]、[[芍陂の役]]において[[魏 (三国)|魏]]の[[王凌|王淩]]と対戦し、[[全ソウ|全琮]]の指揮下で[[全端]]ら全一族や[[顧承]]と共に奮戦して劣勢となった軍を支えたが、戦後の恩賞を巡り全一族と対立した。この時、全一族には孫覇派の一人である全寄もいたため、全寄達から顧承と張休が典軍の陳洵と結託し不正を働いたと讒言され、罪を得て顧譚・顧承・[[姚信]]らと共に[[交州]]へ流罪にされてしまった。
 
また、[[孫弘]]は元々張休と不仲であったため、流罪の身の張休をさらに讒訴した。このことで張休は孫権から死を命じられ、まもなく自害した。41歳だったという。