「J・R・R・トールキン」の版間の差分

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21回目の誕生日の晩、エディスに愛を告白した手紙を書いて、自分と結婚するように彼女に頼んだが、返信には「自分を忘れてしまったと思ったので、婚約した」とあった。ふたりは鉄道陸橋の下で出会い、愛を新たにする。エディスは指輪を返し、トールキンと結婚する道を選んだ<ref>{{harvnb|菅原|1982|pp=79,80}}</ref>。[[1913年]]1月に[[バーミンガム]]で婚約後、エディスはトールキンの主張に従いカトリックに改宗した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p= 85}}</ref>、[[1916年]][[3月22日]]に[[イングランド]]の[[ウォリック (イングランド)|ウォリック]]で結婚した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p= 100}}</ref>。
 
[[1915年]]に優秀な成績で[[英語]]の学位を取り({{仮リンク|エクセター・カレッジ (オックスフォード大学)|en|Exeter College, Oxford|label=エクセター学寮}}で学んでいた)[[オックスフォード大学]]を卒業した後に、[[第一次世界大戦]]に[[イギリス陸軍]]に入隊し、[[少尉]]として[[ロイヤル・フュージリアーズ連隊#ランカシャー・フュージリアーズ(20)|ランカシャー・フュージリアーズ]]の第11[[大隊]]に所属した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=85}}</ref>。部隊は[[1916年]]にフランスに転戦し、トールキンも[[ソンムの戦い]]のあいだ、同年[[10月27日]]に[[塹壕熱]]を患うまで通信士官を務め、[[11月8日]]にイギリスへと帰国した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=107}}</ref>。多くの親友同然だった人々も含めて、自軍兵士たちが激戦で次々と命を落した。[[スタッフォードシャー]]、[[グレート・ヘイウッド]]で療養していた間に、「[[ゴンドリンの没落]]」に始まる、後に『[[失われた物語の書]]』と呼ばれる作品群についての着想が芽生え始めたとされる。[[1917年]]から[[1918年]]にかけて病気が再発したが、各地の基地での本国任務が行なえるほど回復し、やがて中尉に昇進した。 ある日[[キングストン・アポン・ハル]]に配属されたとき、夫婦で[[ルース]]の近くの森に出掛け、そして、エディスは彼のためにヘムロックの花の咲いた開けた野原で踊り始めた。「私たちはヘムロックの白い花の海の中を歩いた」<ref group=* name=hemlock/>。この出来事から、トールキンは[[ベレン (トールキン)|ベレン]]と[[ルーシエン]]の出会いの話の着想を得、彼がしばしばエディスを彼のルーシエンと呼んだ<ref name=tele />。
 
=== キャリア ===