「桜花 (航空機)」の版間の差分

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=== 沖縄戦 ===
[[ファイル:USS Mannert L. Abele (DD-733) port aft view, 1944.jpg|thumb|350px300px|桜花が命中し真っ二つになって轟沈した[[マナート・L・エベール (駆逐艦)|マナート・L・エベール]]]]
[[ファイル:USS Stanly 6 Oct 1944.jpg|thumb|350px300px|桜花が艦首を貫通し甚大な損傷を受け予備艦行きとなった{{仮リンク|スタンリー (駆逐艦)|label=駆逐艦スタンリー|en|USS Stanly (DD-478)}}]]
[[ファイル:USS Hugh W. Hadley (DD-774) midship deckhouse damage on 11 May 1945.jpg|thumb|250px300px|桜花の命中で大破炎上し除籍に追い込まれた時のヒューW.ハドレイ]]
岡村大佐は第一回の失敗により昼間大編隊による攻撃を断念し、主として薄暮及び黎明時に陸攻少数機が1 - 2機ずつに別れての出撃を行う戦術に転換した。その結果として米軍の迎撃が分散され、沖縄戦では桜花射程内までアメリカ艦隊に接近できた母機も増えて戦果も少なからず挙がるようになった。しかし一方でアメリカ艦隊を捕捉できず、桜花のみ空中投棄して帰投する機も多かった<ref>文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年)569 - 577頁</ref>。
一般には二回目の神雷桜花特別攻撃隊以降は戦闘機の護衛は無かったとも言われるが、第306空から第203空へ異動した野口剛によれば、2回目以降も1機の陸攻に対し2〜3機の戦闘機の護衛が付いている<ref>公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成24年5月 第91号 P.37</ref>。
[[1945年]][[4月12日]]、第三回神雷桜花特別攻撃隊でようやく桜花は戦果を挙げる事になった。土肥三郎中尉搭乗の桜花が[[駆逐艦]][[マナート・L・エベール (駆逐艦)|マナート・L・エベール]]の艦体中央部に命中したが、命中とほぼ同時に爆発して船体は真っ二つに折れ沈みだした。あまりの衝撃に艦上に設置してあった[[ボフォース 40mm機関砲]]はほとんどが吹き飛び、艦上にいた水兵は海中に投げ出された<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.95</ref>。マナート・L・エベールは1944年7月に就役した新造艦であったが、わずか9ヶ月で沈没することとなった。殊勲を挙げた土肥中尉は、出撃までは終始悠々とした態度であったとの事で、母機の仮設ベッドで仮眠をとっていたのをわざわざ起こしたという証言や<ref name="kamikaze_102">デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.102</ref>指揮官席で身じろぎもせず腕を組んだまま目を瞑っていたという証言もある<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.269</ref>。母機一式陸攻の機長は三浦北太郎少尉であり、鹿屋基地に無事帰投し土肥中尉の戦果を報告した。
 
また、他の桜花が{{仮リンク|スタンリー (駆逐艦)|label=スタンリー|en|USS Stanly (DD-478)}}に命中した。その桜花はスタンリーの右舷真横を低高度の海面スレスレすれすれで接近、水面からわずか2mの高さの舷側に命中したが、そのまま駆逐艦の艦首を貫き左舷側から飛び出してしまった。桜花の弾頭は、装甲が厚い主力艦対策として遅動信管を搭載した徹甲弾だった為、駆逐艦の艦首では装甲が薄すぎて艦内で爆発せず、皮肉にもスタンリーは沈没を逃れる事となったが<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.273</ref>、桜花が貫いた右舷側はまるでバターナイフで切られたバターの様に切り裂かれており、人的損失は少なかったが艦の損傷は深刻で<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.98</ref>、この後復帰は叶わず予備艦行きとなった。他にも1隻の駆逐艦を至近爆発で損傷させている。この日の桜花の戦果の報告を受けた宇垣中将は{{#tag:ref|日本側は戦艦1隻撃沈と判断していた。|group="注釈"}}、これまで桜花について懐疑的であったが、「三度目の成功にて花散る此頃、如何やら桜花も寿命を伸ばせり」と陣中日記[[戦藻録]]に書いている<ref>宇垣纏『戦藻録 後編』日本出版協同 P.215</ref>。
 
1945年4月14日、第四回神雷桜花特別攻撃隊は7機が出撃、全機が未帰還で戦果も無かったが、澤柳彦士大尉の隊長機より桜花発射との打電があっている。アメリカ軍の記録でも、軽空母ベローウッドの戦闘機隊VF-30(第一回桜花部隊を全滅させた部隊)がベティ(一式陸攻)を撃墜したが、撃墜される前に桜花を投下したという報告がなされている<ref>吉本貞昭『世界が語る神風特別攻撃隊』P.124</ref>。またこの日の戦闘の状況を撮影したカラーフィルムには、[[第38任務部隊|第58任務部隊]]所属の軽空母[[サン・ジャシント (空母)|サン・ジャシント]]の艦首至近海面に桜花が突入し爆発する姿が映っており(サン・ジャシントに損傷なし)、確認できる範囲内では、アメリカ軍の駆逐艦などの[[レーダーピケット艦]]で張り巡らされた早期警戒網を突破し、空母機動部隊を攻撃した唯一の桜花となった<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.331</ref>。
第五回・第六回はアメリカ軍の記録上では戦果がなかったとされるが、出撃した母機搭乗員よりは戦果の報告がなされている。(詳細は[[#戦果]]を参照)
 
1945年5月4日、第七回神雷桜花特別攻撃隊で{{仮リンク|シェイ (機雷敷設駆逐艦)|label=機雷敷設駆逐艦シェイ|en|USS Shea (DM-30)}}に1機の桜花が命中している。桜花は司令官室、[[戦闘指揮所]]、[[ソナー]]ルームなどの艦内中枢を目茶目茶に壊して118126名の死傷者を出させたのち、スタンリーの時と同じようにシェイを貫通し海上で爆発した。そのためシェイは撃沈は免れたが、翌1946年まで修理が終わらないほどの深刻な損害を被り、桜花の威力をまざまざと見せつける事となった<ref>[http://www.destroyers.org/histories/h-dm-30.htm A Tin Can Sailors Destroyer History USS SHEA(DM-30)] 2017年8月12日閲覧</ref><ref>吉本貞昭『世界が語る神風特別攻撃隊』P.141</ref>。他2隻の駆逐艦も至近弾で損傷し3名の負傷者を出した。
 
桜花が最後に戦果を挙げたのが1945年5月11日に第八回神雷桜花特別攻撃隊で、{{仮リンク|ヒューW.ハドレイ (護衛駆逐艦)|label=護衛駆逐艦ヒューW.ハドレイ|en|USS Hugh W. Hadley (DD-774)}}に1機の桜花が命中し、後部機械室と前部ボイラー室の中間で爆発した。艦はたちまち全ての機能が停止、更に大量に浸水したためバロン・J・マレイニ艦長は「総員退艦」を命じたが、艦に残った50名の士官と水兵の神業とも言える[[ダメージコントロール]]で沈没は逃れた。しかし艦の損傷は致命的で9596名もの死傷者を出し、修理はされずそのままスクラップとなった<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.164</ref>。またこの日は宇垣中将の命により、他特攻部隊援護の為に桜花2機をアメリカ軍飛行場攻撃の為出撃させている。滑走路に大穴を開けて離着陸をできなくする目的であったが、アメリカ軍戦闘機の妨害で突入を断念している<ref>宇垣纏『戦藻録 後編』日本出版協同 P.237</ref>。1945年5月25日の第九回神雷桜花部隊は、第一回に次ぐ機数の11機の陸攻と桜花が投入され、連合艦隊司令長官[[豊田副武]]より直々の出撃見送りを受けている<ref>日本ニュース 第252号 1945年6月9日</ref>。前日に[[義烈空挺隊]]が沖縄の飛行場に突入しており、期待も大きかったが、天候不良で内8機が引き返し、残り3機も桜花射出の打電のないまま未帰還となった<ref>吉本貞昭『世界が語る神風特別攻撃隊』P.145</ref>。そのうちの1機の一式陸攻は海面すれすれに飛行し、ピケットラインの駆逐艦に気付かれることなく接近していたが、桜花射出前に発見され対空砲火で撃墜されている<ref>{{Harvnb|オネ―ル|1988|p=200}}</ref>。
 
この後の1945年5月28日に大本営はようやく桜花の機密扱いを解除し、神雷部隊の存在を公表した。「その壮烈なる戦意と一発轟沈の恐るべき威力とを以て敵陣営を震撼せしめたる神雷特別攻撃隊員の殊勲を認め、連合艦隊司令長官は之を夫々全軍に布告せり」との海軍省公表を中心に、翌29日の紙面で新聞各紙は一面で大々的に報じたが、[[朝日新聞]]の紙面には「ロケット彈に乗って敵艦船群へ體當り(体当たり)」とか「1發轟沈神雷特攻隊」とか「翼下から飛び出す皇軍獨特の新兵器」と勇ましい見出しが並び、桜花の概要と、これまでの神雷桜花作戦戦死者321名の布告と、第一回神雷桜花特別攻撃隊出撃時の三橋大尉らの写真も大きく掲載されたが、戦果については曖昧な記述になっている。また外電の[[AP通信|AP電]]やアメリカの[[タイム (雑誌)|タイム誌]]が桜花について日本に先んじて報道したことも伝えていた<ref>朝日新聞 1945年5月29日 1面記事</ref>。
 
桜花の記事は数日間に渡り紙面を飾り、6月1日の[[朝日新聞]]の「霹靂の如き一瞬敵艦ただ死のみ」という見出しの記事には、当時海軍の報道班員だった作家[[川端康成]]の「神雷(桜花のこと)こそは実に恐るべき武器だ(中略)これさへあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑としてくれるぞ」「親飛行機の胴体に抱かれて行く、いわば子飛行機のこの神雷兵器は小さな飛行機の形をしていて色彩も優美で全く可愛い(中略)神雷による勝機は今眼前にある、必勝を信じて神雷にまたがり、淡々と出撃する勇士等恥づかしくない心をもって生産戦に戦い抜かう、爆撃に断じて屈するな」という談話を載せている<ref>朝日新聞 1945年6月1日 2面記事</ref>{{#tag:ref|川端康成は『[[新潮]]』1955年8月号の終戦10周年の特集号に、[[三島由紀夫]]・[[志賀直哉]]ら作家計25名で「昭和二十年の自画像」として戦時を振り返り寄稿した「敗戦のころ」という特集記事で「沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた。」と書いているが、神雷桜花部隊についての記事に談話は寄せていたことになる。|group="注釈"}}。
 
また[[日本放送協会|NHK]]も6月13日より数日間に渡って、神雷桜花部隊の隊員らの様子を伝えるラジオ放送を全国に流したが、その際に報道班員だった作家[[山岡荘八]]が司会や解説をしている<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.398〜P.399</ref>。
| 1945年5月4日 || ヘンリー.A.ワイリ || 駆逐艦 || 0 || 0 || 至近に落下し小破
|-
| 1945年5月11日 || ヒューW.ハドレイ || 護衛駆逐艦 || 3031<ref>[https://usshadley.net  USS Hugh W. Hadley (DD774) Memorial Website] 2018年1月8日閲覧</ref> || 65 || 大破・炎上し総員退艦命令出るも沈まず、しかし修理は困難と判断されそのまま除籍
|-
| 合計 || 7隻 || || 149150名 || 197名 || 1隻撃沈 2隻大破除籍 1隻大破 3隻損傷
|}
[[ファイル:USS Hugh W. HadleyShea (DDDM-77430) at the Philadelphia Naval Shipyard c1946.jpg|thumb|250px|桜花突入前の{{仮が貫通し大破した後、アメンク|ヒューW.ハドレイ(カ本国で修理された敷設駆逐艦)|en|USS Hugh W. Hadley (DD-774)}}シェイ]]
[[ファイル:USS Hugh W. Hadley (DD-774) midship deckhouse damage on 11 May 1945.jpg|thumb|250px|桜花の命中で大破炎上し除籍に追い込まれた時のヒューW.ハドレイ]]
 
=== 損失 ===
** 中島正 猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』(雪華社 1984) ISBN 4-7928-0210-5
** 宇垣纏『戦藻録 後編』(日本出版協同 1953)ASIN: B000JBADFW
** {{Cite book |和書 |author=リチャード オネール |others=[[益田 善雄]](訳) |year=1988 |title=特別攻撃隊―神風SUICIDE SQUADS |publisher=霞出版社 |isbn=978-4876022045 |ref={{SfnRef|オネール|1988}} }}
* 証言集
** 佐伯正明 ほか『<small>証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション12</small> 恐怖の人間爆弾「桜花」発進準備よし』(光人社、1991年) ISBN 4-7698-0546-2
1,388

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