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{{基礎情報 武士
'''依田 政次'''(よだ まさつぐ、[[元禄]]16年([[1703年]]) - [[天明]]3年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1783年]][[8月11日]]))は、[[江戸時代]]の[[旗本]]。[[武家官位|官位]]は[[和泉国|和泉]]守。[[書院番]][[依田政有]]の嫡男。母は[[小幡重世]]の娘。妻は[[山村良考]]の娘、後妻は[[宮城武和]]の娘。子に[[依田政峯|政峯]]、[[山本勝明]]、[[初鹿野信興]]ら。
| 氏名 = 依田政次
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[江戸時代]]中期
| 生誕 = [[元禄]]16年([[1703年]])
| 死没 = [[天明]]3年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1783年]][[8月11日]])
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[和泉国#国司|和泉守]]
| 幕府 = [[江戸幕府]] [[大目付]]
| 主君 = [[徳川吉宗]]→[[徳川家重|家重]]→[[徳川家治|家治]]
| 藩 =
| 氏族 = [[依田氏]]
| 父母 = 父:[[依田政有]]、母:[[小幡重世]]娘
| 兄弟 =
| 妻 = [[山村良考]]娘<br/>後室:[[宮城武和]]娘
| 子 = [[依田政峯|政峯]]、[[山本勝明]]、[[初鹿野信興]](三男)など
| 特記事項 =
}}
 
'''依田 政次'''(よだ まさつぐ)は、[[江戸時代]]中期の[[旗本]]。[[大目付]]。
 
== 経歴 ==
[[元禄]]16年([[1703年]])、[[書院番]]・[[依田政有]]の嫡男として誕生。
[[享保]]元年([[1716年]])、14歳の時に8代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川吉宗]]に拝謁、享保10年([[1725年]])に[[小姓組]]に入り、[[小納戸]]、[[徒士]]頭と昇進し、[[目付]]になる。そこから[[作事奉行]]を経て、[[能勢頼一]]の後任として[[宝暦]]3年([[1753年]])に[[町奉行|北町奉行]]に就任し、[[明和]]6年([[1769年]])まで務めた後、さらに[[大目付]]へと栄進し、同時に加増されて1100石の知行を得た。晩年は[[留守居]]役となり、[[大奥]]の監督に尽力したが、大奥の女中達と反目し、天明2年([[1782年]])に老齢を理由に致仕、翌年に死去。[[享年]]81。
 
[[享保]]元年([[1716年]])、14歳の時に8代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川吉宗]]に拝謁、享保10年([[1725年]])に[[小姓組]]に入り、[[小納戸]]、[[徒士]]頭と昇進し、[[目付]]になる。そこから[[作事奉行]]を経て、[[能勢頼一]]の後任として[[宝暦]]3年([[1753年]])に[[町奉行|北町奉行]]に就任し、[[明和]]6年([[1769年]])まで務めた後、さらに[[大目付]]へと栄進し、同時に加増されて1100石の知行を得た。晩年は[[留守居]]役となり、[[大奥]]の監督に尽力したが、大奥の女中達と反目し、天明2年([[1782年]])に老齢を理由に致仕、翌年に死去。[[享年]]81
 
晩年は[[留守居]]役となり、[[大奥]]の監督に尽力したが、大奥の女中達と反目し、[[天明]]2年([[1782年]])に老齢を理由に致仕。
 
天明3年([[1783年]])、死去。享年81。
 
北町奉行在任中には[[山県大弐]]、[[藤井直明]]、[[竹内敬持]]らが策動したとされる[[明和事件]]の解決に手腕を振るい、彼らに死罪、獄門、遠島などの処分を下した。他にも、[[札差]]と[[旗本]]の間で生じた対立が生じてエスカレートくなったた際に仲介を務め、一方で踏み倒しや不正な取立てを行う者に対しては徹底した調査を行って厳罰に処し、不正の横行を抑止することに尽力した。
 
== 参考文献出典 ==
*丹野顯「江戸の名奉行」([[新人物往来社]])