「陳敏 (西晋)」の版間の差分

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[[303年]]、[[張昌]]は乱を起こすと、配下の[[石冰]]を[[寿春]]へ派遣した。
 
[[12月]]、寿春都督の[[劉準 (西晋)|劉準]]は大いに恐れ、計略は何もなかった。このとき陳敏は、大軍を従えて寿春に駐屯していた。陳敏は劉準へ「反乱軍はもとより遠征を望んでおらず、止むを得ずして賊になったのです。烏合の衆というのは、容易く崩れやすいものです。私に指揮権を分け与えて下されば、必ずや反乱軍を破ってみせます。」と勧めた。これを受け劉準は、陳敏の兵を増やした。陳敏は敵軍を攻撃し、[[呉弘]]、石冰らを破った。陳敏は勝ちに乗じて北上し、数十回戦った。石冰の兵は陳敏の10倍を数えたが、陳敏は少数で迎撃し、全て勝利した。遂に陳敏は[[揚州 (古代)|揚州]]に到達した。
 
[[304年]][[3月]]、陳敏は軍を返すと、徐州の賊である[[封雲]]を討伐した。封雲配下の[[張統]]は、封雲を斬って投降した。こうして揚州・徐州は平定され、陳敏は功績により広陵相となった。