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[[File:Zhao Yun statue 2016 Zilong Square (Zhengding) 1.jpg|thumb|[[正定県]]趙雲故里にある趙雲像]]
 
陳寿は[[黄忠]]並び共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となったと2人し、趙雲を[[夏侯嬰]]に比している<ref>李光地によれば、趙雲が幼い後主を拾ったことが[[夏侯嬰]]が幼い恵帝を拾ったこと対応している。</ref>。<br>
『[[季漢輔臣賛]]』では「重厚な性質」とされ、[[陳到]]と共に「選り抜きの兵士を率い、勇猛でたびたび勲功をたてた」とされている。
 
 
== 趙雲別伝 ==
本伝中の記述がやや簡素なのに比べ、以下の『趙雲別伝』は記述が多く、[[司馬光]]も[[資治通鑑]]を編纂するにあたって趙雲別伝の記述を採用している。<br>
他方、[[清]]の[[史学者]][[何シャク|何焯]]は「趙雲別伝とは趙家の家伝を改編したものではないか」と疑問を呈し、趙雲が劉備に仕えた時期が正史と異なること、第一次北伐に降格された趙雲が褒賞を受けたのが不自然であることを挙げ内容を否定している。<br>
李光地も、本伝中の趙雲は功績が少ない一方で、別伝中の趙雲は功績が多すぎるとして、その違いに疑問を呈している。
 
趙雲は身長八尺(約184cm)で、姿や顔つきが際立って立派だったという。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて公孫瓚の配下となった。
 
後に趙雲が兄の喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった時、劉備は趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟った、とある。(<ref>[[192年]]に常山郡は袁紹の統治領となった。</ref>。
 
建安5年([[200年]])、劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲は[[ギョウ|鄴]]で久しぶりに目通りし、密かに募った数百人の兵を連れて劉備の配下となった。
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劉備は入蜀時に趙雲を留営司馬に任じ、奥向きのことを取り締まらせた。[[孫権]]は劉備が自分を騙して入蜀したと聞くと、[[孫夫人]]を呉に帰らせたが、孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。趙雲は張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した。このエピソードは『[[漢晋春秋]]』にも載っている。
 
益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした際、趙雲が反対したので劉備はそれに従ったという。[[漢中郡|漢中]]攻め([[定軍山の戦い]])では[[黄忠]]を救出し見事な撤退戦と[[空城計]]を演じたため、劉備から「子龍は一身これ胆なり(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と賞賛され、軍中において虎威将軍と呼ばれるようになった。このエピソードは『[[資治通鑑]]』にも載っている
 
[[漢中郡|漢中]]攻め([[定軍山の戦い]])では[[黄忠]]を救出し見事な撤退戦と[[空城計]]を演じたため、劉備から「子龍は一身これ胆なり(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と賞賛され、軍中において虎威将軍と呼ばれるようになった。このエピソードは『[[資治通鑑]]』にも載っている。
 
[[章武]]元年([[221年]])、[[呉 (三国)|呉]]を討とうとする劉備を諫めたが聴き容れられず([[夷陵の戦い]])、趙雲は江州に留まった。