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== 歴史 ==
=== 匈奴からの独立 ===
[[漢代]]の初め、[[匈奴]]の[[冒頓単于]]が[[東胡]]を滅ぼした際、その生き残りが烏山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏と[[鮮卑]]になった。初めは勢力が弱く、匈奴に臣下として仕え、年ごとに牛や馬や羊を貢いでいた。もし定めの時期を過ぎてもその数が揃わないときには、彼らの妻子が匈奴に連れ去られるのが常であった。匈奴の[[壺衍鞮単于]](こえんていぜんう)(在位:[[紀元前85年]] - [[紀元前68年]])の時代になると、烏の力がだんだん強くなり、匈奴の[[単于]]の墓を暴いて、冒頓単于に敗れた時の恥に報復した。壺衍鞮単于は激怒し、2万の騎兵をやって烏に攻撃をかけた。[[前漢|漢]]の[[大将軍]]の[[霍光]](かくこう)は、この情報を得ると、[[度遼将軍]]の[[范明友]]を送り、3万の騎兵を率いて、遼東郡から出陣し、匈奴の後を追って攻撃をかけた。范明友の軍が到着したときには、匈奴はもう引き揚げた後だった。烏は匈奴の兵から手痛い目を受けたばかりで、范明友は彼らが力を失っているのに乗じて、軍を進めて烏に攻撃をかけ、6000余りの首級を上げ、3人の王の首を取って帰還した。その後も烏は幾度か[[万里の長城|長城]]地帯に侵攻してきたが、范明友はそのたびごとに兵を出して打ち破った。[[新]]の[[王莽]]の末年になると、烏は匈奴とともに侵略を行うようになった。[[光武帝]]が天下を平定すると、伏波将軍の[[馬援]]を送り、3000の騎兵を率い、五原関から長城の外に出て、征伐を行わせた。しかし何の成果も上げず、馬1000余匹を死なせただけであった。烏は引き続いて勢力を盛んにし、匈奴に略奪や攻撃を仕掛けた。匈奴は千里の彼方へ居住地を移し、漠南の地([[内モンゴル]])は空になった。
 
=== 後漢の時代 ===
[[建武 (漢)|建武]]25年([[49年]])、烏の大人[[郝旦]](かくたん)ら9000余人が部下を引き連れて漢の朝廷にやってきた。その主だった指揮者が王や侯に封ぜられ、その数は80人以上にものぼった。彼らを長城の内側に居住させ、[[遼東属国]],[[遼西郡|遼西]],[[右北平郡|右北平]],[[漁陽郡|漁陽]],[[燕国|広陽]],[[上谷郡|上谷]],[[代郡]],[[雁門郡|雁門]],[[太原郡|太原]],[[朔方郡|朔方]]の諸郡に分けて住まわせ、同じ烏族の者たちを内地に移るよう招き寄せた。彼らに衣食を給し、[[護烏校尉]]の官を置いてその統治と保護にあたらせた。こうした施策の結果、烏は漢のために[[塞外]]の偵察と警備の任にあたり、匈奴や鮮卑に攻撃を加えるようになった。
 
[[永平 (漢)|永平]]年間になって、漁陽烏の大人の[[欽志賁]](きんしほん)が部族を糾合して漢の命令を聞かなくなり、鮮卑も再び漢へ攻撃を始めた。遼東[[太守]]の[[祭肜]](さいゆう)は、懸賞を出して欽志賁を暗殺させ、その混乱に乗じて一味を打ち破った。
 
[[安帝 (漢)|安帝]]の時代になると、漁陽,右北平,雁門の烏の率衆王[[無何]](むか)たちは、また鮮卑や匈奴と連合して、代郡,上谷,[[涿郡]],五原で略奪を働いた。そこで[[大司農]]の[[何熙]](かき)に[[車騎将軍]]を兼任させ、[[近衛兵]]をその旗下につけ、国境地帯の7つの郡と[[黎陽営]]の兵士を動員して、合わせて2万の軍で攻撃をかけさせた。匈奴は降服し、[[鮮卑]]と烏はそれぞれ長城の外へ引き揚げていった。これ以後、烏はまただんだんと漢に接近してきたので、彼らの大人[[戎末廆]](じゅうまつかい)を[[都尉]]の官に就けた。[[順帝 (漢)|順帝]]の時代には、戎末廆は、主だった配下の[[咄帰]](とつき)や[[去延]]らを率い、護烏校尉の耿曄(こうよう)に従って長城を出て、鮮卑を攻めて手柄を立てた。帰還するとそれぞれ率衆王の位を与えられ、[[絹]]を賜った。
 
=== 蹋頓の登場 ===
漢の末年、遼西烏の大人[[丘力居]](きゅうりききょ)は5000余りの落を配下に置き、上谷烏の大人[[難楼]](なんろう)は、9000余りの落を配下に置いてそれぞれ王を名乗っていた。加えて遼東属国烏の大人[[蘇僕延]](そぼくえん)は1000余りの落を配下に置いて、勝手に峭王と号し、右北平烏の大人[[烏延]]は800余りの落を配下に置いて、勝手に汗魯王を号し、彼らはそれぞれに智謀もあり勇敢な者たちであった。[[中山郡|中山]][[太守]]の張純は、逃亡して丘力居の配下に入ると、自ら弥天安定王と号し、三郡の烏の総指揮者となり、[[青州 (山東省)|青]],[[徐州|徐]],[[幽州|幽]],[[冀州|冀]]の四州を攻略し、役人や民衆を殺し略奪を行なった。[[霊帝 (漢)|霊帝]]の末年、[[劉虞]]が幽州の[[刺史|牧]]に任ぜられると、異民族の間に恩賞を約束し張純の首を取らせることができた。のちに丘力居が死ぬと、息子の[[楼班]]は年が若く、従子の[[トウ頓|蹋頓]]に武略があったので、蹋頓が代わって立って、三王の配下を統括した。人々はみな彼の命令をよく聞いた。[[袁紹]]が[[公孫サン|公孫瓚]]と幾度も戦いながら、勝負がつかずにいる時、蹋頓は使者を袁紹のもとに送って和親を求め、袁紹を助けて公孫瓚を攻撃し、これを打ち破った。袁紹は勝手に朝廷の命令を偽造して蹋頓,難楼,蘇僕延,烏延に印綬を与えて、それぞれ[[単于]]の称号を与えた。
 
のちに楼班が成長すると、峭王([[蘇僕延]])はその配下を取りまとめつつ、楼班を奉じて単于とし、蹋頓を王とした。蹋頓は策略をめぐらすことを好む人物であった。広陽の[[閻柔]]は若い時捕らえられて烏と[[鮮卑]]のもとに連れてこられたが、次第に異民族たちの崇敬を集めるようになっていた。そこで閻柔は鮮卑部族の力を借りて、[[護烏校尉]]の[[ケイ挙|邢挙]]を殺すと、自ら護烏校尉の官に就いた。袁紹はこれを利用し、閻柔を手厚く扱うことによって北辺の安定を計った。のちに袁紹の三男である[[袁尚]]が[[曹操]]に敗れて蹋頓のもとに逃げ込むと、蹋頓の力を頼んで[[冀州]]奪回を目論んだ。ちょうどその頃、曹操は[[河北]]を平定し、閻柔は鮮卑と烏を引き連れて曹操のもとに帰順した。そこで曹操は引き続いて閻柔を護烏校尉に任じ、漢の使節を与えて、以前どおり[[上谷郡]]寧城で職務にあたらせた。
 
[[建安 (漢)|建安]]11年([[206年]])、曹操は自ら[[朝陽市|柳城]]の蹋頓を撃った。秘密裏に軍勢を動かし間道を通ったが、柳城の手前100里余りの所で敵軍に発見された。袁尚は蹋頓とともに兵を率いて[[凡城]]に曹操を迎え撃ち、その兵馬ははなはだ盛んであった。曹操は小高い場所に登って、敵の陣営を見渡し、兵を出すのを抑えていた。敵に少し動きのあるのを見届けてから兵を動かし、敵兵を打ち破った。その戦闘の間に蹋頓の首を取り、死者は野を埋めた([[白狼山の戦い]])。速附丸,楼班,烏延らは遼東郡に逃げ込んだが、遼東郡の役所は彼らすべてを斬って、その首を駅馬で曹操のもとにもたらした。それ以外の散り散りに残った者たちもみな降伏した。これらの者たちを、[[幽州]]と[[并州]]で閻柔の配下にあった烏1万余りの落と一緒にし、部族を挙げて漢の内地に移住させた。彼らのうちの王侯や大人の指揮下にある異民族の兵士たちを統合し、[[曹操]]の軍に加わらせた。こうして三郡の烏は騎兵としての名が天下に聞こえた。
 
=== 魏の時代 ===
[[景初]]元年([[237年]])秋、幽州[[刺史]]の[[カン丘倹|毌丘倹]](かんきゅうけん)を遣わし、多くの軍団を率いて遼東を討たせた。右北平烏[[単于]]の[[寇婁敦]](こうろうとん)と遼西烏[[都督]]・率衆王の[[護留]]とは昔、[[袁紹]]に従って遼西に逃亡してきたのであるが、毌丘倹の軍が来ると聞いて、配下の5000余人を引き連れて降伏した。寇婁敦は弟の[[阿羅槃]](あらばん)を遣わし、宮廷に伺候して朝貢物を献上させた。朝廷は、寇婁敦の配下の主だった指揮者30余人を王に封じ、[[輿]](こし)や馬などをそれぞれの位に応じて下賜した。
 
== 習俗 ==
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== 主な指導者 ==
*郝旦([[光武帝]]の時代)…[[建武 (漢)|建武]]25年([[49年]])に朝貢。
*欽志賁(歆志賁)([[永平 (漢)|永平]]年間)…漁陽の烏。反乱を起こすが、暗殺される。
*無可([[安帝 (漢)|安帝]]の時代)…漁陽,右北平,雁門の率衆王。[[永初 (漢)|永初]]3年([[109年]])反乱を起こす。
*於秩居(安帝の時代)…[[元初]]4年([[117年]])、漢とともに、[[鮮卑]]の[[連休 (鮮卑)|連休]]を討つ。<『[[後漢書]]』鮮卑伝>
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*修武盧(普富盧と同一人物か?)…軻比能の配下
 
*骨進(曹丕の時代)…魏の国境地帯を侵攻するが、護烏校尉の[[田豫]]に斬り殺された。
 
== 参考資料 ==