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'''林崎 甚助'''(はやしざき じんすけ、[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])? - [[元和 (日本)|元和]]3年([[1621年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[剣客]]、[[武芸者]]。居合([[抜刀術]])の始祖とされる。旧名、'''浅野民治丸'''。[[名字]]は林崎、[[仮名 (通称)|通称]]は'''甚助'''、[[本姓]]は'''[[源氏|源]]'''、[[諱]]は'''重信'''。生年は天文17年([[1548年]])とも。
 
林崎甚助が開いた流派は、[[神夢想林崎流]]、林崎流、林崎夢想流などと呼ばれるが、甚助自身が生前にこの流派名を名乗ったわけではない。この他に神夢想林崎流から分かれた多くの流派([[無双直伝英信流]]、[[民弥流居合術|民弥流]]、[[水鴎流]]、[[関口流]]など)の系譜では初代となっており、江戸期以降、林崎甚助に教受された弟子たちの業を見聞きした武芸者や修行者が独自に居合を創作する例もあるなど非常に強い影響力を及ぼしている。現代においても古流の業を語る上では林崎甚助が引き合いに出されるほど、未だその存在は計り知れない。
 
== 生涯 ==
生年は不明だが参考文献では1544年とされる。[[出羽国]]楯山林崎(現・[[山形県]][[村山市]]林崎)で生まれた。父は浅野数馬、[[幼名]]民治丸。1547年、父が坂一雲斎に恨まれ、夜更けに碁打ちの帰宅中を闇討ちされ、[[仇討ち]]のため[[楯岡城]]の武芸師範[[東根刑部太夫]]について[[武術]]に精進した。林崎夢想流第十七代宗家奥山勧禅によると1556「1559年、林明神([[熊野明神]])百か日参籠し、仇敵坂上主膳を打ち、父親の無を晴らさんと請願た所神より家伝の大刀三尺以上の二寸三分を腰に帯、抜刀を一瞬日夜練磨した。満願の暁、夢中林の明神が示現刀の秘術卍抜をけらたとしてる<ref>『日本伝承武芸流派読本』新人物往来社、1992年、126頁より引用</ref>。その後1561年、齢19にして仇討ちを果たした(本懐を遂げたのは1560年とも言われる。これは古来、年齢は数え年で数えられていたため)。{{要出典範囲|その後、諸国を廻国修行する傍ら幾多の弟子を育てていて、その途中で[[加藤清正]]に招かれ加藤家の家臣を指南したとも伝えられる。|date=2018年1月}}
 
林崎夢想流の伝書奥山勧禅よると、林崎甚助は[[塚原卜伝]]より[[新当流|鹿島新当流]]も学んだと最高秘えてお天下第一之剣」、卜伝一之太刀を授かり、晩年は山形に住み慶長年間に故郷で没したとしている<ref>『日本伝承武芸流派読本』新人物往来社、1992年、126頁から127頁</ref>。{{要出典範囲|伝書にも卜伝流剣術の目録が存在している|date=2018年1月}}。また、[[将監鞍馬流|鞍馬流剣術]]の伝書においても林崎甚助が第2代として系譜されている。他にも多くの流儀を学んだとされる。
 
武術太白成伝によると、林崎甚助、名は氏賢、相模の産としており、文禄四年より慶長三年まで武州一ノ宮の社地に居住し、54歳で諸州を暦遊、元和2年に武州川越の甥高松勘兵衛の許に滞在、翌元和3年(1617年)、70代にして諸国へ再度廻国修行に出て、その後の行方は知れないという<ref>林崎甚助源重信公資料研究委員会『林崎明神と林崎甚助重信』居合振武会、1991年、43頁から42頁</ref>
 
林崎甚助の弟子には、[[田宮重正]]([[田宮流]]開祖)、長野無楽斎、[[関口氏心]][[関口流片山久安]]開祖)などがいるとされている<ref>朝倉一善、林崎甚助重信の門人たち、『居合道虎の巻』、スキージャーナル、2008年、88頁から91頁</ref>
 
甚助が神託を得た林崎明神は、仇討ちの帰途、[[信国]]の太刀を奉納されたと伝わる。現在では林崎甚助も祀られて[[林崎居合神社]]と呼ばれている。
 
== 参考文献 ==
*『剣の達人111人データファイル』[[新人物往来社]]、2002年
*『居合道虎の巻』スキージャーナル、2008年
*『日本伝承武芸流派読本』新人物往来社、1992年
 
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