「何無忌」の版間の差分

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無忌は劉牢之の参軍であった[[劉裕]]と仲が良く、ともに桓玄打倒の策を相談するようになった。この計画に[[劉毅]]が加わった。[[404年]](元興3年)、無忌は劉裕や劉毅らとともに起兵し、京口を占拠した。無忌は勅使と偽ったため、城中に反抗する者を出さなかった。
 
桓玄が[[安帝 (東晋)|安帝]]を連れて西に逃亡し、[[建康 (都城)|建康]]に武陵王[[司馬遵]]の承制による政権が発足すると、無忌は輔国将軍・[[琅邪郡|琅邪国]]内史となり、会稽王[[司馬道子]]の部下の精兵を配属され、[[劉道規]]らとともに劉毅の指揮に従い、桓玄を追撃した。桓玄の部下の何澹之・郭銓・郭昶之らが湓口を守っていたが、無忌らが桑落洲に進軍すると、戦いを仕掛けてきた。何澹之はいつも乗艦に派手な旌旗を立てていたが、それがなかったため、何澹之が不在であることが分かった。しかし何澹之がいなくとも、その乗艦を奪うことには意味があると無忌が主張したため、劉道規は無忌の案に従い、何澹之の乗艦を奪取した。このことをもって、何澹之を捕らえたと喧伝すると、何澹之の兵は動揺した。劉道規は勢いに乗って進軍し、無忌もまた騒がしく兵を進めると、何澹之の軍は潰滅した。無忌らは尋陽に入り、宗廟の主祏や武康公主と琅邪王妃を収容して建康に送り返した。また劉毅や劉道規とともに桓玄を崢嶸洲で撃破した。無忌は巴陵に進軍した。桓玄の従兄の[[桓謙]]と甥の[[桓振]]の間隙に乗じて江陵を奪回した。無忌と劉道規は馬頭の桓謙を攻め、龍泉の[[桓蔚]]を攻撃し、ともに撃破した。しかし桓振に敗れて江陵を再び落とされたため、無忌らは退いて尋陽を守った。無忌は劉毅や劉道規らとともに桓振を攻撃し、夏口の三城を攻め落とし、巴陵を平定した。[[405年]]([[義熙]]元年)、馬頭に進軍した。桓謙が[[荊州]]と[[江州]]の返還を申し出て、安帝を送り返してきたが、無忌は許さず、軍を進めて江陵を攻め落とし、桓謙らを敗走させた。無忌は安帝を護衛して建康に帰らせた。督[[豫州]][[揚州 (古代)|揚州]]淮南廬江安豊歴陽堂邑五郡軍事・[[右将軍]]・豫州[[刺史]]に任じられ、節を加えられたが、赴任しなかった。[[会稽郡|会稽国]]内史・督江東五郡軍事に転じた。[[406年]](義熙2年)、都督江荊二州江夏隨義陽綏安豫州西陽新蔡汝南潁川八郡軍事・江州刺史に転じた。安帝復位の功績により、安成郡開国公に封じられた。督[[司州]]之弘農揚州之松滋を加えられ、散騎侍郎を兼ねた。[[409年]](義熙5年)、鎮南将軍の号に進んだ。
 
[[410年]](義熙6年)、[[広州]]刺史の[[盧循]]が反乱を起こし、江州に進攻した。盧循の部将の徐道覆が戦艦で[[カン江|贛水]]を下って進軍してくると、無忌は水軍を発して迎え撃とうとした。長史の鄧潜之が決戦を諫めて、守城策を取るよう進言したが、無忌は聞き入れなかった。無忌の乗った小艦は、急な西風に煽られて東岸に打ち寄せられ、そこに反乱軍の大艦が迫ったため、大敗した。無忌は節を握ったまま死んだ。死後、[[侍中]]・[[司空]]の位を追贈された。[[諡]]は忠粛といった。