「三波伸介 (初代)」の版間の差分

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* 三波の代表的なギャグ「びっくりしたなぁ、もう」は、幼少期の息子・伸一が言っていた言葉。ある日営業先でマネした際に客にウケ、それから使い始めたという説と、「大正テレビ寄席」初出演時、国定忠治役の戸塚がタイミングを間違えて突然抜刀。驚いた伸介のとっさの一言だったという説がある。
* 三波らが築いた「トリオブーム」を脅かした後輩の[[コント55号]]、とりわけ[[萩本欽一]]との間には長年不仲が伝えられていた。しかし実際はお互い対抗意識は無く、三波は萩本を可愛い後輩として常に温かく見守っていたという。三波は生前、萩本を愛称で「欽坊」と呼び、萩本は三波を「お兄さん」と呼んで慕っていた。急逝後の追悼番組として放送された「[[三波伸介の凸凹大学校]]」最終回では、萩本が出演し故人を偲ぶコメントを残しており、三波が亡くなるわずか20時間前に収録されたVTRが放映された。
* [[ザ・ドリフターズ]]のリーダー・[[いかりや長介]]とも親交が深く、兄弟分の間柄であった(三波の方が1歳上)。いかりやの自伝『だめだこりゃ』によると、いかりやは自分と同年輩の仲間が周囲にほとんどおらず、コメディの世界では三波だけが唯一の同年輩で、しかも同じ東京[[下町]]の生まれであったため、三波とは共通の話題を持つことができて嬉しかったという。
* 実際に三波がライバル視していたのは[[渥美清]]と[[藤山寛美]]であり、特に渥美に対しては敵意をむき出しにしていたと言われる。三波と渥美は共に同じ[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]小屋から軽演劇を経た者同士であり、三波が大阪から戻り再起を期した頃には渥美は既にトリオコントから脱皮して一流芸能人の仲間入りをしていたことや、また三波の妻と渥美が旧知の間柄であったことなども、三波に一層の敵対心を抱かせた原因といわれる。三波が生前「喜劇王」を目指すと公言していたのも、ひとえに渥美を超えたい一心だったものともいえる。
* 三波が渥美を敵視するようになったきっかけは、同じ舞台役者であった妻和子夫人と結婚前、新橋でデートしている所に渥美と遭遇、渥美は三波を無視して妻と話し込み、去り際に「俺は先に行って待ってるからな、お前はぼちぼち来いよ」とつぶやかれたからであると、息子の[[三波伸介 (2代目)|伸一]]が証言している。渥美は当時、日劇に呼ばれて一流芸人の仲間入りを果たした時期であり、三波は手に持っていた新聞を地面に叩き付けて悔しがったという。三波は息子に渥美と藤山寛美のビデオを見せて、自分とどっちが面白いかを尋ねるなど、終生ライバル視していたが、同時に「[[男はつらいよ]]」の映画は全部観ており、驚くほど細かいところまで観察していた。テレビなどでは披露されなかったが、渥美の物真似も上手く、芸人としての力量を認めていたからこそのライバル視であったことがうかがわれる。[[1977年]]に公開された[[松竹映画]]『[[幸福の黄色いハンカチ]]』([[山田洋次]]監督・[[高倉健]]主演)で渥美が演じた渡辺係長の役を、[[1982年]]に[[菅原文太]]主演で[[テレビドラマ]]でリメイクされたとき、三波がこの役を演じている。