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* 実子である[[鄧樸方]]は、[[北京大学]]在学中に[[文化大革命]]に巻き込まれ、[[紅衛兵]]に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は多くあり、鄧小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。鄧小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の[[障害者]]団体に関わっていたことがある。
* [[1974年]]の国連資源総会に出席した際、中国は過去も、現在も[[覇権]]を求めておらず、将来強大になっても[[覇権]]を求めないと演説した<ref> [http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zgbk/zzzd/t229337.htm 白書「中国の平和的発展の道」]</ref>。
* [[日本国]][[外務省]]の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、[[1978年]]8月の[[日中平和友好条約]]交渉において、鄧小平が[[ソ連]]を[[覇権主義]]と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。その際に鄧小平が[[園田直]]外相に対し、「中国は、将来巨大になっても[[第三世界]]に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであり、[[近代化]]を実現したときには、[[社会主義]]を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではなく打倒すべきだ」と述べたという<ref>「鄧小平氏の教訓」、『読売新聞』2011年1月12日付論点。</ref>。同条約調印式の際は[[日米安全保障条約]]と[[自衛隊]]の軍事力増強を歓迎すると表明した<ref>[http://www.nids.go.jp/publication/briefing/pdf/2011/briefing_150.pdf 中国から見た日米同盟体制 - 防衛省防衛研究所]</ref>。
* [[1977年]]、 訪中した元[[陸将]]・[[陸上自衛隊]]第9師団長の三岡健次郎に対して鄧小平は「毛沢東主席は常々『過去のことは水に流そう』と言われた。しかも実際は日本が中国を助けた。日本が蒋介石を重慶まで追いやったから我々は日本軍の占領地域の後方に展開できた。そして8年間に3万から120万にまで増えたし、さらに数百万の民兵まで作り、120万の我々は3年で蒋介石軍を撃破できた。だから皆さんだけを責めるのは不公平だと思う」と述べ<ref>三岡健次郎『自衛隊将軍鄧小平と会す』「軍事研究」昭和52年12月1日</ref>、鄧小平の要請で三岡健次郎が設立した[[中国政経懇談会]]が始めた[[自衛隊]]OBによる日中交流は中断なく今日まで続いてる<ref>Willマンスリーウイル『自衛隊OB・人民解放軍交流会報告 中国の狙いは「尖閣に五星紅旗」』 2013年9月</ref>。
* [[1978年]]の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]]決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。[[新幹線]]に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らしている。ほかには、「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を残してもいる。事実、訪中した[[鈴木善幸]]自民党総務会長に対し、中国での日中共同の兵器工場を建設する計画を鈴木本人によれば真剣に提案してきたという<ref>『鈴木善幸回願録』p155</ref>。訪日時の[[昭和天皇]]との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いた鄧小平は立ちつくしたと、[[入江相政]]は言っている<ref>入江相政日記241頁</ref>。この後に鄧小平は昭和天皇の訪中に拘り始め、[[1984年]]に[[田中角栄]]元首相を通して日本に働きかけるも[[宮内庁]]は[[沖縄]]訪問を優先したので断られた<ref>城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』8頁</ref>。天皇の訪中は[[明仁|今上天皇]]となってから[[1992年]]に実現する。
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* [[大韓民国大統領]]の[[朴正煕]]とは[[三菱商事]]の当時の藤野忠次郎社長の後押しで経済協力と[[ホットライン]]開設を目的に接触していた<ref>{{cite news |title=相互依存の韓日関係 |publisher=東洋経済日報 |date=2009-06-12 |url=http://www.toyo-keizai.co.jp/news/opinion/2009/post_1919.php |accessdate=2016-09-27}}</ref><ref>[[河信基]]『証言「北」ビジネス裏外交--金正日と稲山嘉寛、小泉、金丸をつなぐもの』第5章175頁、講談社、2008年</ref>。朴正煕の暗殺で立ち消えとなった中韓のホットラインは2015年に娘の[[朴槿恵]]大統領が開設するまで実現されなかった<ref>{{cite news |title=韓中の国防部間にホットライン開通 北朝鮮対応で連携 |publisher=[[聯合ニュース]] |date=2015-12-31 |url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2015/12/31/0900000000AJP20151231001000882.HTML |accessdate=2016-09-27}}</ref>。
* [[蒋介石]]との世界反共連盟設立や[[文鮮明]]との国際勝共連合創設などの活動で日本の[[反共主義]]者の代表格や「[[右翼]]のドン」とされた[[笹川良一]]とは日中国交正常化から親交を結んだ<ref>{{cite news |title=「遠のく鄧小平時代」|publisher=日本財団会長笹川陽平ブログ |date=2009-01-23 |url=http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1735 |accessdate=2016-10-18}}</ref>。
* [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]最高指導者の[[金日成]]は長年の付き合いから「親密な同志で戦友」と評価していたが<ref name=gomiyouji>[[五味洋治]]「中国は北朝鮮を止められるか: 中朝愛憎の60年を追う」第5章151-159頁 2010年6月 晩聲社 ISBN 978-4891883485</ref>、その後継者の[[金正日]]は後継者に公認されて初の外遊である[[19831982年]]9月の訪中から帰国した際に中国の改革開放を「社会主義や共産主義を捨てた」「修正主義」と批判したことで鄧小平は「なんて馬鹿な奴だ」「世間知らずの小童」と唾棄し、焦った金日成は謝罪を約束してそれを拒む金正日と口論になっている<ref>{{cite news |title=【秘録金正日(47)】中国の改革解放を「共産主義捨てた」と一蹴 トウ小平は「なんてばかなやつだ」と激怒|publisher=[[産経新聞]] |date=2015-10-23 |url=http://www.sankei.com/premium/news/151020/prm1510200004-n5.html|accessdate=2016-10-18}}</ref>。金日成は生涯最後の外遊である[[1991年]]の中国訪問で鄧小平から改革開放を迫られて帰国後の会議で[[羅先特別市#国際貿易拠点として|羅津・先鋒経済貿易地帯]]の設置を決定するも<ref name=gomiyouji/>、その跡を継いだ金正日は90年代に計画経済に固執して[[苦難の行軍]]という大飢饉を起こすことして結局鄧小平死後の[[21世紀]]なる入ってから17年ぶりに訪中して中国に経済支援を仰いだ
* [[歴史認識]]では「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたという<ref>徐鵬「[http://cpc.people.com.cn/BIG5/64162/64172/85037/85038/6334385.html 鄧小平:從抗日主將到推動中日友好的歷史巨人]」『中国共産党新聞』(『[[人民網]]』)、2012年9月24日閲覧。</ref>。ただし、[[奥野誠亮]]大臣の発言や閣僚の[[靖国神社]]参拝については「日中友好を好ましいと思わない人がいる」と批判している。