「内丹術」の版間の差分

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『'''[[黄帝内経]]'''』は[[春秋時代]]からの気の思想を受け継ぎ[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]から[[前漢]]までに完成したと考えられる、人体を対象として深化させた気の医学である。現代の[[中医学|中国医学]]でも基本とする古典であり<ref name="気で読む中国思想" />、道家思想に基づき陰陽五行思想や天文学を吸収し集大成したものである<ref name="道教事典">{{Cite book|和書|author=野口鐵郎、坂出祥伸、[[福井文雅]]、山田利明 |year=1994 |title=道教事典 |publisher=平河出版社 |isbn=4-89203-235-2}}</ref>。医学書と同時に神仙の書として<ref>{{Cite book|和書|author=林克「医書と道教」、 |year=2000 |title=講座道教 第三巻 道教の生命観と身体論 |publisher=雄山閣出版 |isbn=4-639-01669-7}}</ref>仙道とも密接な繋がりがある。歴史的に医師が[[道士]]である例は多く、道教と中医学の関わりは深い<ref>{{Cite book|和書|author=吉元昭治「道教と中国医学」、 |year=1983 |title=道教 第2巻 道教の展開 |publisher=平河出版社 |isbn=4-89203-057-0}}</ref>。{{See also|中医学}}
 
「'''行気'''」は気を行(めぐら)して活力を全身に行き渡らせる術である。戦国初期の出土文物「行気玉佩銘」([[:zh:行气玉佩铭|zh]])<ref>{{Cite web |url=http://www.google.co.jp/images?hl=ja&q=%E8%A1%8C%E6%B0%94%E7%8E%89%E4%BD%A9%E9%93%AD&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi |title=行气玉佩铭 - Google画像検索 |accessdate=2010-10-04}}{{Zh-smpl icon}}</ref>には既に行気による養生法が述べられ、導引の発達とともに行気も重視されるようになった。[[晋 (王朝)|晋]]代の『抱朴子』([[:zh:抱朴子|zh]]「釈滞篇」<ref>{{cite wikisource|抱朴子/卷08|葛洪|zh|nobullet=yes}}</ref>には房中・服薬とともに三大養生法に挙げられている。[[梁 (南朝)|梁]]・[[唐]]初期の『養性延命録』は病の箇所に意識で気を導き治療させることを説いている。<ref name="道教事典" />
 
「'''導引'''」とは身体を屈伸して正気を導き身心を調整する養生術である。春秋時代には既に行われていたと考えられる。1973年に[[馬王堆漢墓]]から出土した[[秦]][[漢]]代の『導引図』<ref>{{Cite book |和書 |author=中国湖南省博物館 |year=2015 |title=紀元前の健康絵図 馬王堆導引図の研究 |others=那連一郎・訳 | series=Kindle版 |publisher=BCCKS Distribution}}{{ASIN|B00TFVG8E2}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=白杉悦雄、坂内栄夫 |year=2011 |title=却穀食気・導引図・養生方・雑療方 | series=馬王堆出土文献訳注叢書 |publisher=東方書店 |isbn=978-4-497-21008-1}}</ref>には多数の人物による様々な動作が描かれている。[[後漢]]の[[華佗]]は禽獣の動作を参考に「五禽戯」([[:zh:五禽戏|zh]])を考案した。[[隋]]の巣元方([[:zh:巢元方|zh]])は『諸病源候論』([[:zh:诸病源候论|zh]])で治療に導引を用いている。[[宋 (王朝)|宋]]初の『[[雲笈七籤]]』は多くの導引法を所収している。<ref name="道教と養生思想">{{Cite book|和書|author=坂出祥伸 |year=1992 |title=道教と養生思想 |publisher=ぺりかん社 |isbn=4-8315-0538-2}}</ref><ref name="道教事典" />
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=== 外丹の流行と没落 ===
外丹術は金石草木を服用する「服食」と呼ばれる古代の神仙方術のひとつの発展形である。『[[神農本草経]]』は中国最古の医薬書とされるが本来の目的は[[霊薬|仙薬]]を求めることにあった<ref>{{Cite book|和書|author=大形徹 |year=1992 |title=不老不死 仙人の誕生と神仙術 |publisher=講談社 |series=講談社現代新書 |isbn=4-06-149108-3}}</ref>。初期は草木中心の仙薬であったが、次第に鉱物から人工的に合成したものを不老不死の丹薬として重視するようになり「外丹術」が発展していった。外丹術の萌芽は漢代に登場し、『抱朴子』([[:zh:抱朴子|zh]])を著した[[西晋]]・[[東晋]]の[[葛洪]]らによって確立した。葛洪は[[辰砂|丹砂]]・金液などの鉱物から合成した丹薬に最上の価値を置く煉丹術を唱えた。[[東漢]]の人とも三国[[呉 (三国)|呉]]の人とも言われる魏伯陽([[:zh:魏伯阳|zh]])の『周易参同契』<ref>{{cite wikisource|周易参同契|魏伯陽|zh|nobullet=yes}}</ref>([[:zh:周易参同契|zh]])は、汞([[水銀]])と[[鉛]]の配合を煉丹の基本とした。この外丹書は[[易経|易理]]を用い、陰陽五行の複合的シンボリズムに基づくさまざまな隠語で煉丹の材料や過程を表現している。「鉛汞」といえば煉丹術の代名詞となり、鉛汞を表す青龍・白虎といった術語は後の内丹術に引き継がれた。『周易参同契』は[[五代十国時代|五代]]・[[北宋]]の頃から内丹道の古典とみなされるようになり、内丹の観点から解釈した注釈書がいくつも作られた。
 
外丹には水銀化合物や[[砒素]]化合物が含まれ、強い毒性があったと考えられる。煉丹術の流行により水銀や水銀化合物を服用して逆に命を縮める人が後を絶たなかった。そのため宋代には鉱物性の丹薬を作る外丹術は衰退していき、唐代より次第に重んじられるようになった内丹術が主流となっていった。外丹術は不老長生の薬を作るという本来の目的では完全な失敗に終わったが、中国の医薬学と化学の発展に貢献した。