「西郷吉兵衛」の版間の差分

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== 経歴 ==
*文化3年(1806年)西郷竜右衛門隆充の長男として誕生。
*文化11年([[1814年]])8月28日:弟の西郷小兵衛<ref group="注釈">のちの大山綱昌の事。大山家に養子入りする前は小兵衛を称していた。</ref>とともに藩主[[島津斉興]]に初お目見え。
*[[文政]]10年12月7日〈1828年1月23日):長男・小吉(のちの西郷隆盛)誕生。
*[[天保]]5年([[1834年]])1月26日:通称を九郎と改める。
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* 吉兵衛は[[日置家|日置島津家]]の家来の四本氏が母のため、日置島津家とその庶流赤山家の家政上の世話をする御用人だった。赤山靭負の遺言を聞き、臨終を見届けて一切の処置をとった。また、赤山の血衣を持ち帰って吉之助に見せ、涙ながらに赤山の最期を語ったという。
* 「西郷隆盛年譜」によれば、[[弘化]]4年に吉兵衛は吉之助とともに、薩摩郡[[水引村|水引郷]](現在の[[薩摩川内市]])の油問屋の板垣家を訪ね、100両借金した。翌年、板垣家の息子板垣休右衛門が西郷家を訪れ、さらに100両、合計200両を借りたという。
:「詳説西郷隆盛年譜」によると、この借金はすでに売却した石高の買戻し<ref group="注釈">薩摩藩では石高の売買が可能であり、これに関する法律まで存在した</ref>に使い、47石余りを超える高を買った。しかし、藩の規定で石高の購入時に追加で費用を必要とした事が後に判明。このため、当初予定の47石を下回る41石余りと借金200両しか手元に残らなかったという。なお、借金の完済は[[明治]]5年(1872年)であった。
 
== 登場作品 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
<references/>
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==