「今村昌平」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Liqater (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
55行目:
性格的には家父長志向が強く、そのことは一面では教育者として顔をも持ち合わせ、長谷川和彦を育て、映画人を育成する横浜映画専門学院を創立、後に日本映画学校となり、[[日本映画大学]]の母体となった。[[撮影所システム]]が1970年代に崩壊して、映画会社が人材育成をやめて以降の人材供給の役割を果たしていくことになった<ref>香取俊介『人間ドキュメント 今村昌平伝説』河出書房新社、2004年、p.295</ref><ref>田中千世子「映画・書評スペシャル 『教育者・今村昌平』」『キネマ旬報』2011年2月上旬号、pp.158-159</ref>。
 
家族は妻と2男1女。長男は脚本家で映画監督の[[天願大介]]。次男長男、今村プロダクション代表取締役の[[今村竑介]](いまむら ひろすけ、[[1963年]][[3月22日]] - )は次男にあたる。50年余の映画監督人生の中で、20作品を監督している。妻は1970年代に近所の主婦を集めて『[[あしたのジョー]]』『[[サザエさん]]』『[[タイガーマスク]]』などのアニメの彩色と仕上げを行う下請けの仕事をして、今村が劇映画を撮れなかった10年間の家計を支えた<ref>今村昌平『映画は狂気の旅である 私の履歴書』日本経済新聞社、2004年、pp.175、242</ref>。
 
今村昌平作品は重喜劇と言われ、これは今村を象徴する言葉で、もともとは軽喜劇をもじった今村による造語である<ref>今村、2004年、p.81</ref>。作風は自然主義リアリズムで、脚本執筆の際には徹底した調査を行った<ref>「わくわくすることを求め続けて 長谷川和彦インタビュー」『20世紀の記憶 かい人21面相の時代 1976-1988』毎日新聞社、2000年、p.26</ref><ref>香取、2004年、p.180</ref><ref>佐藤忠男『今村昌平の世界 増補版』学陽書房、1997年、p.72</ref>。『[[赤い殺意]]』では[[宮城県]]の12家族を調査し<ref>香取、2004年、p.200</ref>、『[[にっぽん昆虫記]]』は売春婦とその斡旋業者に取材したノートは3冊になり、『[[エロ事師たち|エロ事師たちより 人類学入門]]』のために[[ブルーフィルム]]制作者に実際に取材した<ref>今村、2004年、pp.129-130</ref>。その調査魔ぶりは『[[復讐するは我にあり]]』の映画化の際にも発揮され、原作者の[[佐木隆三]]を驚かせた<ref>佐木隆三「文庫版のためのあとがき」『復讐するは我にあり 改訂新版』文春文庫、2009年、pp.477-478</ref>。撮影にあたっては基本的にオールロケが原則で、俳優もスタッフもロケ地で長期間の合宿生活をして暮らしながら撮影するスタイルを取っており、俳優の掛け持ち出演も許さなかった<ref>香取、2004年、p.52</ref><ref>「場欄万丈撮影日記 北村和夫の巻」『「のど自慢」な人びと』「のど自慢」な人びと製作委員会編、文藝春秋、1998年、p.57</ref>。鬼のイマヘイと言われる妥協のない粘りの演出で、アフレコを嫌って臨場感のある同時録音にこだわった<ref>香取、2004年、pp.180、455</ref><ref>[[紅谷愃一]]『日本映画のサウンドデザイン 感動場面を演出する音声収録と音響処理のテクニック』誠文堂新光社、2011年、pp.43、47</ref>。
63行目:
趣味は麻雀<ref name="今村242">今村、2004年、p.242</ref>。相撲取りクラスの非常に大食いであり<ref name="今村242" /><ref>今村昌平『撮る カンヌからヤミ市へ』工作舎、2001年、p.218</ref>、[[松竹大船撮影所]]ではどんぶり飯を2杯食べる新人というので評判だった<ref>村松友視『今平犯科帳 今村昌平とは何者』日本放送出版協会、2003年、p.16</ref>。しかしその旺盛な食欲が災いして29歳で糖尿病となる<ref>今村、2004年、p.75</ref>。糖尿病治療でよくテニスをやってスタッフにもつきあわせていた<ref>香取俊介『人間ドキュメント 今村昌平伝説』河出書房新社、2004年、p.258</ref>。晩年は高齢に加えて糖尿病の影響でエネルギッシュだった今村はめっきり無口になった<ref>香取、2004年、pp.476、491</ref>。ヘビースモーカーだったが、禁煙した<ref name="今村242" />。
 
今村が松竹から日活へ移籍した後、今村の師匠である[[川島雄三]]が同じく日活に移籍、また監督試験で「松竹に落選」した[[浦山桐郎]]が[[鈴木清順]]監督の計らいで日活入所となった。川島は[[幕末太陽傳]]での製作にかかる予算配分を巡って日活と対立し、結局日活を去るが、今村は日活に残り、『[[にっぽん昆虫記]]』、『[[赤い殺意]]』などの製作を行なう。今村は常に川島を意識して、地方出身で都会志向の川島に対して、東北土着の「基層心理」をベースにした作風(本人の言葉で言えば重喜劇)をこのとき確立させた。のちに今村はこの基層心理を推し進めてドキュメントタッチの作風に変化して行ったが、主人公は常に庶民であり、有名人の故事来歴的作品は一切取り上げなかった。
 
師匠[[川島雄三]]についての追悼録、『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の生涯』では川島の生涯を実証的に取り上げ、川島が[[筋萎縮性側索硬化症|ALS]]に侵されながらそれを一切他言せず、最後まで映画製作の現場に立っていたことを取り上げた。今村は総じて女性を肉感的に表現することを好み、作品には『うなぎ』も含め多くの作品で女優の[[ヌードシーン]]が登場している。また『[[ええじゃないか (映画)|ええじゃないか]]』の女優の放尿シーンは[[映像倫理審査会]]の規定に触れるとして物議をかもした事がある{{要出典|date=2010年7月}}。
 
長男の天願は父・今村について「金儲けが下手な理想主義者」と語っている。
 
== 経歴 ==