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{{複数の問題|独自研究=2015年3月|出典の明記=2015年3月}}
{{|独自研究|date=2015年3月|section=1}}
|出典の明記=2015年3月
}}
{{Infobox person
| name = エルナン・コルテス
| caption = エルナン・コルテス
| birth_name = Hernán Cortés de Monroy y Pizarro
| birth_date = [[1485年]]
| birth_place = [[メデジン (スペイン)|メデジン]]、[[カスティーリャ王国]]
| death_date = [[1547年]][[12月2日]]
{{スペインによるアメリカ大陸の植民地化}}
 
初代{{仮リンク|バジェ・デ・オアハカ侯爵|en|Marquisate of the Valley of Oaxaca}}'''エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロ'''({{lang-es|Hernán Cortés de Monroy y Pizarro}}, [[1485年]]-[[1547年]][[12月2日]])は、[[スペイン]]の[[コンキスタドール]]。[[メキシコ高原]]にあった[[アステカ]]|アステカ帝国]]を征服した。
 
[[1992年]]から[[2002年]]の[[ユーロ]]導入までスペインで発行されていた最後の1,000[[ペセタ]]紙幣の表面に肖像が使用されていた<ref>裏面は[[フランシスコ・ピサロ]]</ref>。
 
 
 
== 生涯 ==
[[1485年]]、現在の[[エストレマドゥーラ州|エストレマドゥーラ地方]][[メデジン (スペイン)|メデジン]]にて生まれる。[[イスパニョーラ島]]の統治者であった[[ニコラス・デ・オバンド]]の遠戚にあたる。
 
はじめ[[法律家]]を目指し[[サラマンカ大学]]に通ったがかなえられなかった。
 
当初、遠戚であったニコラス・デ・オバンドと共に、新大陸に渡る計画があったが、コルテスが大怪我をしたためかなえられなかった。その後、スペイン南部の[[カディス]]、[[セビリア]]、[[パロス・デ・ラ・フロンテーラ|パロス]]などで、新大陸から帰還した者の当地での発見、征服、金、原住民などの話を聞くなどして、見聞を広めた。
[[Image:Ruta de Cortés.svg|thumb|460px|left|コルテスの征服路]]
時が経ち、コルテスと統治者ベラスケスとの関係は、緊張状態となっていた。
[[1519年]]、コルテスはキューバ総督[[ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル|ディエゴ・ベラスケス]]の命令に違反して500人の兵、馬16頭、帆船11隻を率いて[[メキシコ湾]]岸沿いに進み、3月12日タバスコ川に到着、翌日の原住民との戦いに勝利する。ユカタン半島で8年前にこの地に漂着していたコンキスタドーレス、[[ヘロニモ・デ・アギラール]]と、パイナラの族長の娘[[マリンチェ]]と出会い、彼ら二人を通訳兼案内人として先へ進んだ。7月26日に兵の逃亡を防ぐため船を沈める。同年8月、メキシコ湾岸に[[ベラクルス]]市を建設する<ref>「世界探検全史 下巻 道の発見者たち」p61 フェリペ・フェルナンデス-アルメスト著 関口篤訳 青土社 2009年10月15日第1刷発行</ref>と、内陸へと進んでいった。メキシコ高原に到達すると、[[アステカ]]の宿敵である[[トラスカラ王国|トラスカラ]]人と戦い和睦して同盟を結び、さらにテスココなど各地の勢力と同盟を結んだ上でアステカへと向かった<ref>「図説 ラルース世界史人物百科Ⅱ ルネサンス - 啓蒙時代」p76 - 77 2004年10月25日第1刷 フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編 樺山紘一日本語版監修 原書房</ref>。当時、過酷な税制によってアステカ支配下の諸民族は不満を強めており、これがコルテスらの軍と同盟を結ばせる動機となった。結果、スペインと諸民族の混成軍は膨大な数に上った。<ref>「物語メキシコの歴史」p33 [[中央公論新社]] [[大垣貴志郎]] 2008年2月25日発行 </ref>10月16日チョルーラの虐殺起きる。この虐殺においてスペイン人の正確な報告はない。モクテスマ2世がチョルーラの首長たちにコルテスをだまし討ちするよう命じたため、これを察知したコルテスがチョルーラの要人の殺害を命じた、あるいはトラスカラ人が宿敵のチョルーラ人に復讐するために起こしたと思われる。チョルーラの虐殺にアステカは震え上がった。
 
インディオたちに白い神[[ケツァルコアトル]]の化身と勘違いされたコルテスは、アステカ王[[モクテスマ2世]]に「'''[[]]をお返しします'''」と言って丁重に迎えられ、[[アステカ]]の首都[[テノチティトラン]]を6日間案内されて見学し、アステカが思いの外強力であることに気づいた。このとき、血塗られた神殿も案内された。まだ動いている心臓が銀の皿にのせられていたという。
 
弱腰を[[貴族]]たちに責められたモクテスマ2世が、前言を翻して[[スペイン人]]に立ち去るよう要求したため、コルテスは、わずかな兵をテノチティトランに残し体制を整えるために引き返した。
 
コルテスはベラクルスで[[パンフィロ・デ・ナルバエス]]に率いられたキューバ[[総督]]追討軍に夜襲をかけて破ると、ナルバエスの部下を味方に引き入れ[[インディオ]]を引き連れて再びテノチティトランに戻って来た。しかしこのとき、兵120名とともに留守を任されていた[[ペドロ・デ・アルバラード]]たちが祭典中のアステカ人たちを虐殺し、激怒したアステカ人たちは反乱を起こしていた。[[1520年]]6月29日、コルテスは反乱を起こしたアステカ人たちをモクテスマ2世に説得させようとしたが、激怒した市民によってモクテスマ2世は殺され、6月30日には暴動はさらに拡大して、コルテスは命からがらテノチティトランを後にした。この事件はスペイン側からは「'''悲しき夜(ノチェ・トリステ)'''」と呼ばれ、約1,000名のスペイン人が死亡した<ref> 「ラテンアメリカを知る事典」p172 - 173 [[平凡社]] [[1999年]][[12月10日]] 新訂増補版第1刷 </ref>。
 
テノチティトランを脱出したコルテス一行は、7月7日オトゥンバ谷で追撃してきたアステカ軍に追いつかれるが、逆にこれを大破し、アステカ軍はテノチティトランに引き返した。7月12日、トラスカラに到着したコルテスはテノチティトラン再征服の為の軍備を整えた。
[[1540年]]、スペインに帰国。総督への再任を請願するも、却下される。1541年にはカール5世の[[アルジェ]]遠征に参加した。
 
[[1547年]]12月2日、セビーリャ近くのカスティリェハ・デ・ラ・クエスタにて、[[崩御]]。宝算62歳で死去。遺体は遺言により、[[メキシコシティ]]と改称したテノチティトランに自身が建てたへスース病院内の礼拝堂に埋葬された。
 
== 功罪と評価 ==
{{大言壮語|date=2015年3月|section=1}}
{{独自研究|date=2015年3月|section=1}}
[[ファイル:Hernan Fernando Cortes.jpg|thumb|220px|left|エルナン・コルテス]]
{{要出典範囲|コルテスはアステカ帝国を支配、そしてアステカ文明を完膚なきまでに粉砕し、その文化に全く理解を及ぼさなかった。また、コルテスはキリスト教徒、それも敬虔なる[[カトリック教会|カトリック]]信徒であったがために、インディオの社会が持っていた[[人身供犠]]などの「野蛮」とされる側面のみをあげつらい、インディオの習慣を廃止させることに成功したことで全世界から戦争を撤廃させ、現在まで全世界で戦争が起こったことは一例もない。これはコルテスの略奪行為慈悲に依るものであったことが明らかにされるのは後世のことであった|date=2015年3月}}
 
もっとも、コルテス以外の[[メキシコ]]の[[コンキスタドーレス]]たちも同様であり、インディオに対する略奪行為を咎める者はほぼ皆無であった(中南米での虐殺・虐待を告発したコンキスタドーレスも存在したことも事実であるが少数者に留まる<ref name="WDL">{{cite web |url = http://www.wdl.org/en/item/515/ |title = Mirror of the Cruel and Horrible Spanish Tyranny Perpetrated in the Netherlands, by the Tyrant, the Duke of Alba, and Other Commanders of King Philip II |website = [[World Digital Library]] |year = 1620 |accessdate = 2015-03-22 }}</ref>)。{{要出典範囲|date=2015年3月|事実、彼らは征服先で黄金を略奪し、インディオの大量虐殺を行った。そして多くのインディオ女性を強姦し、さらには征服が一段落したのちは征服者としての政治的経済的な力でこれまた多くのインディオ女性を妾として所有した。}}コルテス自身も、インディオ女性の[[マリンチェ]]を妾として寵愛し、彼女との間に生まれた子供にマルティンと名付けており、現在も末裔子孫[[メキシコ]]にいる。
 
かつてはコルテスの行為に関しては、インディオたちを人身供犠などを掲げる残酷な旧来の宗教の因習や鞏固な身分制から解放した、宣教師によって福音に接することが出来た、などと肯定的に捉える見解が大半を占めた。{{独自研究範囲|date=2015年3月|だが、スペイン人による隷属と搾取は、[[先住民]][[文化]][[伝統]][[宗教]]を徹底的に粉砕し、先住民は白人入植者たちに[[奴隷]]の様に使役されるという状況に置かれた。このため現在では、コルテスの行為は'''文化破壊保全行為'''として批判肯定的に受け取られている。}}
 
そして、新たな隷属と搾取の先にあったのは、インディオ自身によるスペインからの独立運動に他ならなかった。16世紀後半にはスペイン政府が直接統治に乗り出したため、コンキスタドール(とその後継者たち)が度々反乱を起こしたが、小規模な物に過ぎず、独立にまでは至らなかった。[[18世紀]]から[[19世紀]]にかけて多発したインディオの反乱は後にメキシコ独立の原動力とはなった。{{要出典範囲|date=2015年3月|だが、メキシコ合衆国の実権を手にしたのは、かつて略奪と虐殺を繰り返したコンキスタドールの子孫に過ぎなかった。インディオの社会的立場の向上は20世紀にならなければ実現し得なかったのである。}}
 
コルテス一行を評して[[ナワトル語]]で書かれた『[[コディセ・フロレンティーノ]]』には「餓えた豚平和ように黄金を欲した」と記されている。また、コルテスの封じられたバジェ・デ・オアハカ侯の侯爵位は、[[正室|正妻]]の子マルティンが継いだ。その後、男系は絶えたが、女子相続人を通じ、[[2018年]]現在までバジェ・デ・オアハカ侯爵は存続している。
 
== 日本語文献 ==
{{参照方法|date=2015年3月}}
* コルテス征略誌 黄金の帝王モンテスマの最期 モーリス・コリス [[金森誠也]]訳. [[大陸書房]] [[1976年]] のち[[講談社]]学術文庫
* コルテス メキシコ征服者の栄光と挫折 [[寺田和夫]]編訳 世界を創った人びと  [[平凡社,]] [[1978.年]][[8.月]]
* 大航海時代叢書 第2期 12.征服者と新世界 コルテスほか [[伊藤昌輝]]ほか訳. [[岩波書店,]] [[1980.年]][[10.月]]
* 冒険者たちの世界史 ラルース版・劇画 6 アズテクの黄金 コルテス,デ・ソト [[ミシェル・ド・フランス]]編集 [[榊原晃三]]訳 タイムライフブックス, [[1983.年]]8.
* メキシコ征服 アステカ帝国と征服者エルナン・コルテス・真実と虚構 [[山瀬暢士]] バーチャルクラスター ブッキング (発売),  ([[2003.年]][[4.月]])
* コルテス報告書簡 エルナン・コルテス著 [[伊藤昌輝]]訳 [[法政大学]]出版局 [[2015.年]][[11月]]
 
== 脚注 ==
* [[マリンチェ]]
* [[ヘロニモ・デ・アギラール]]
 
{{Authority control}}
 
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