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:在位:[[768年]] - [[814年]]
:[[カロリング朝]]を起こした[[ピピン3世]]の子。フランク王[[カール若王 (フランク王)|カール]]・[[イタリア王国 (中世)|イタリア王]][[ピピン (イタリア王)|ピピン]]・[[アキテーヌ地域圏|アキタニア王]][[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルイ]]の父。
:[[西ヨーロッパ]]の主要部分を統一し[[フランク王国]]を最盛期にした。[[800年]]には西ローマ皇帝([[フランク・ローマ皇帝]])にも[[列聖]]。[[古代ローマ|古典ローマ]]、[[キリスト教]]、[[ゲルマン民族|ゲルマン文化]]の融合を体現し「[[ヨーロッパ]]の父」とも呼ばれる。彼の死後3人の孫により国は分裂した。
;[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]
:[[ヴァロワ朝]]の第5代[[フランス君主一覧|国王]](在位:[[1422年]] - 1461年)
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:[[ブルボン朝]]第2代[[フランス君主一覧|国王]](在位:[[1610年]][[5月14日]] - [[1643年]][[5月14日]])。[[ナバラ王国|ナバラ]][[ナバラ君主一覧|国王]]。
:[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の子。母は[[メディチ家]]出身。曽祖父に[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]。[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]・[[オルレアン家]]初代当主[[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ]]の父。
:父が[[暗殺]]されたことにより8歳半で即位。[[宰相]][[リシュリュー]]のもと貴族を抑え国王集権を強化した。
;[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]
:[[ブルボン朝]]第3代'''国王'''(在位:[[1643年]][[5月14日]] - [[1715年]][[9月1日]])ナバラ王国国王。
:[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の子。[[スペイン]]王[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]の孫。スペイン王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]の祖父、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の曽祖父。
:父ルイ13世が41歳で亡くなったため4歳で即位。宰相[[ジュール・マザラン|マザラン]]のもと三十年戦争の[[戦後]]処理交渉などを行ったが、貴族抑圧政策に怒った[[貴族]]や司法官と重税に抗議する[[パリ]]市民が大反乱を起こした([[フロンドの乱]])。一時パリに脱出し反乱が静まると反乱貴族の土地を没収した。
:その後スペイン王女[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|マリー・テレーズ]]と結婚。マゼラン死去後宰相を廃止し絶対君主となる。財務総監[[ジャン=バティスト・コルベール|コルベール]]による[[重商主義]]により[[マニュファクチュア]]を育成し[[保護貿易|保護貿易主義]]と[[植民地政策]]により国家財政を莫大にすることに成功。[[ヴェルサイユ宮殿|ベルサイユ宮殿]]の建設を開始する。
:[[自然国境説]]により[[ライン川]]方面に進み[[ネーデルラント]]に侵入。ついで英蘭戦争に乗じて領土を獲得。[[ファルツ継承戦争]]も行う。[[スペイン継承戦争]]で劣勢に立たされ生涯を終える。
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:[[コルシカ島]]の[[パトリキ|血統貴族]]出身。[[ナポレオン2世]]の父。
:フランス革命中にジャコバン派を支持。フランス地中海艦隊の母港[[トゥーロン]]を奪回して功績を上げる。[[1795年]]、[[王党派]]の蜂起[[ヴァンデミエールの反乱]]を鎮圧。[[1796年]]、イタリア方面軍司令官に抜擢されオーストリアに連戦連勝。[[1798年]]、[[エジプト]]に上陸し、[[ピラミッドの戦い]]で勝利。しかし12月[[第二次対仏大同盟]]が結成されフランスが危機に陥ると、[[1799年]]、[[ブリュメールのクーデター]]を起こし、[[統領政府]]を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。1800年には[[フランス銀行]]を設立。[[1804年]]には初の本格的な民法「フランス民法典([[ナポレオン法典]])」を公布。[[1801年]]に[[教皇]][[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]]との間で[[政教条約]]を結び、国内の宗教対立を緩和。[[1802年]]に自らを終身統領(終身執政)と規定。
:1804年5月国会の議決と[[国民投票]]を経て皇帝の地位に就いた。1805年10月、[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン]]率いるイギリス海軍の前に[[トラファルガーの海戦]]にて完敗。対英上陸作戦を断念し大陸制覇に方針を変える。[[アウステルリッツの戦い]]で[[オーストリア帝国]]と[[ロシア帝国]]に完勝。10月の[[イエナの戦い]]・[[アウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍に大勝して[[ベルリン]]を占領。ヨーロッパ中央をほぼ制圧する。1806年[[大陸封鎖令]]を出しイギリスとの貿易を禁止させる。[[ティルジット条約]]においてプロイセンは49%の領土を削り、さらに多額の賠償金をフランスに支払わせた。[[フランス]][[イギリス]][[スウェーデン]]を除くヨーロッパ全土を制圧し、[[イタリア]][[ドイツ]]西南部諸国・[[ポーランド]]はフランス帝国の属国に、[[ドイツ]]系の残る二大国、[[オーストリア]]・プロイセンも従属的な同盟国となった([[ナポレオン戦争]])。
:しかしその後[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]に失敗、[[ライプツィヒの戦い]]で大敗し[[1814年]]首都パリが陥落。将軍連の反乱により退位させられ、[[エルバ島]]に追放された([[解放戦争 (ドイツ)|解放戦争]])。
:[[1815年]]、戦後処理の[[ウィーン会議]]の混乱とフランス王に即位した[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]の政治が民衆の不満を買っているのをみて、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位する。しかし連合国に講和を提案したが拒否され、イギリス・プロイセンの連合軍に[[ワーテルローの戦い]]で完敗して再び退位に追い込まれる([[百日天下]])。南[[大西洋]]の孤島[[セントヘレナ|セントヘレナ島]]に幽閉され死去した。
;[[ナポレオン3世|ナポレオン3世 (ルイ・ナポレオン)]]
:[[フランス第二共和政]]の[[共和国大統領 (フランスの大統領)|大統領]]、のち[[フランス第二帝政]]の[[フランス皇帝|皇帝]](在位:[[1852年]] - [[1870年]])
:[[ナポレオン・ボナパルト]]の甥(弟の[[ホラント王国|ホラント王]][[ルイ・ボナパルト|ルイ]]の子)。[[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト|ナポレオン・ウジェーヌ]]の父。
:{{仮リンク|1851年クーデター|en|French coup of 1851}}により王党派を一掃。国民投票にかけて92%の賛成票を得たうえで、1852年1月14日に[[1852年憲法|新憲法]]として公布。11月には国民投票により大統領に代わって世襲制の皇帝制が導入され皇帝に即位した([[フランス第二帝政]])。数々の国内政策・対外進出を続けたが[[普仏戦争]]で捕虜になり廃位にされた。
 
== スペイン ==
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