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2015年2月24日 (火) 12:13時点における版
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オクヤマ
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2018年1月18日 (木) 02:16時点における版
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12行目:
文帝前10年([[紀元前170年]])、薄昭は使者を殺害した罪で自殺した<ref>『漢書』顔師古注引鄭氏によると、文帝は薄昭を処刑するのを望まず、彼に大臣と酒を飲ませ自殺を促したが自殺せず、群臣に喪服を着せ彼のところで哭させたところ、自殺したという。</ref>。
軹侯は
易侯
薄昭の子
薄戎奴
(易侯)
が継ぎ、後に薄戎奴の子薄梁が継いだが、[[紀元前139年]]に軹侯は除かれた。
その後、文帝が薄昭を自殺させた事は、皇帝が罪のある[[外戚]]を殺す際の前例としてしばしば引き合いに出されている。