「三波伸介 (初代)」の版間の差分

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海ボチャン (会話 | 投稿記録)
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* 「[[夜のヒットスタジオ]]」の2代目司会者となった際、当時のスタッフが三波に期待したのはいわゆるコメディリリーフとしての役割であり、当初は司会進行にはあまり関わっていなかったが、[[朝丘雪路]]降板後は進行にも本格的に参加するようになった。この番組の相手が当時1、2を競うオシャレなタレントとして知られていた[[芳村真理]]であったことに配慮してか、三波は毎週本番の前日に必ず服を数着新調してこの番組に臨むように心がけていたと伝えられている。このエピソードから構成を務めていた[[塚田茂]]は「三波さんには三枚目の役割を期待したが、どうしても(緊張していたせいか)二枚目になってしまう」と当時の司会ぶりを回顧している。前任のフリートーク・知的な毒舌を売りとした[[前田武彦]]、後任のエンターテイナーぶりを徹底していた[[井上順]]の間で三波の司会ぶりは埋没されてしまった感が否めないものの、前任の前田が引き起こしてしまった「共産党バンザイ事件」(詳しくは「夜のヒットスタジオ」「前田武彦」の項目を参照のこと)によるダメージから比較的早い段階で軌道修正に成功し、井上順司会抜擢以降の番組安定期、長寿番組化への道を歩みだす上で、明瞭かつ豪快なイメージのある三波がこの段階でこの番組の司会に抜擢されたことは番組史全体としては大きな意味があったということもできる。
* 生前に[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]・[[ライター]]・[[絵画]]に造詣を持っており、三波伸介一門が運営している「三波伸介記念館」のホームページで形見の所蔵品として公開している。
* 息子の伸一が「2代目・三波伸介」を継ぐべきという意見が各方面から上がったことや、生前伸一が自身の死後に2代目を継ぐことを希望していたという<ref name="bakuho"></ref>経緯もあり、[[2009年]]の二十七回忌の日に襲名が行われることとなった。2009年[[12月8日]]、'''「二代・三波伸介」'''の襲名披露パーティーが[[東京ドームホテル]]<ref>『笑点』の収録会場である[[後楽園ホール]]の近くにある。</ref>にて執り行われた。<ref>[http://www.asahi.com/showbiz/stage/engei/TKY200912070087.html 2代目三波伸介、8日に襲名 45歳息子「思いを継ぐ」] - 朝日新聞、2009年12月7日</ref><ref>[http://www.news24.jp/entertainment/news/169335.html 27年ぶり2代目三波伸介誕生「新しい東京喜劇目指す」] - 日テレNEWS24、2009年12月8日</ref>
 
=== 笑点時代でのエピソード ===
*『[[笑点]]』司会者当時、レギュラー出演者の[[桂歌丸]]と[[三遊亭小圓遊#4代目|三遊亭小圓遊]]の[[大喜利 (笑点)|大喜利]]における罵倒合戦が激化したため、2人の「和解式」を提案。三波と当時大喜利メンバーのリーダー格であった[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]が立会人となり、[[1972年]][[8月27日]]の放送の中で実際に行われた。
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* [[飛行機]]が苦手で、普段は飛行機での移動を極力避けていたが、地方収録でやむを得ず飛行機を利用した際には、恐怖のあまり隣に同乗したスタッフの手をずっと握っていた。三波の飛行機嫌いを知らない若い男性スタッフが同乗したときには「飛行機が揺れるたびに僕の手を握って離さない。三波さんってホモっ気があるんじゃないんですか」とこぼしたという。
* [[生もの]]が苦手で、[[香川県|香川]]ロケで当地で一番といわれる[[料亭]]に招待された際には、出された[[白魚]]や[[刺身]]を同行していたマネージャーにどんどん薦めて自分の分まで食べてもらい、場の雰囲気を壊さないよう気を遣っていたという。
* 笑点と同じ[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]製作で当時正月に放送されていた「[[番組対抗かくし芸大会]]」には笑点チームで参加予定で、亡くなる4日前に三波も参加して演目の収録が行われたが、急遽エントリーを取り止めている。皮肉にもその演し物は『カルメン』であり、心臓を押さえながら最期を迎える役を演じていた<ref name="minami1" />。
 
== テレビ出演 ==