「よど号ハイジャック事件」の版間の差分

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*** このJA8315は日本国内航空が[[1965年]]に導入した機体(「羽衣号」の愛称があった)で、翌年に日本航空に路線ごと[[リース]]されていた。日本国内航空が東亜航空と合併して[[日本エアシステム|東亜国内航空]]となった後の[[1972年]]に返却され、「たかちほ号」として[[1975年]]初めまで使われその後日本国外の[[航空会社]]に売却された。
* コールサイン:Japan Air 351
* フライトプラン:[[東京国際空港|羽田空港]]発[[福岡空港|板付空港]](現在の[[福岡空港]])行
* 乗員:7人
** コックピットクルー:3人
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=== ハイジャック実行 ===
1970年3月31日、午前7時33分、[[東京国際空港|羽田空港]]発[[福岡空港|板付空港]](現在の[[福岡空港]])行きの[[日本航空]]351便が、[[富士山]]上空を飛行中に[[日本刀]]や[[拳銃]]、[[爆発物|爆弾]]など[[武器]]と見られる物を持った犯人グループによりハイジャックされた。犯人グループは男性客を窓側に移動させた上で、持ち込んだ[[ロープ]]により拘束し、一部は操縦室に侵入して相原[[航空機関士]]を拘束、石田[[機長]]と江崎[[副操縦士]]に[[平壌]]に向かうよう指示した。
 
=== 板付空港へ ===
この要求に対し江崎副操縦士は「運航しているのは福岡行きの国内便であり、北朝鮮に直接向かうには燃料が不足している」と犯人グループに説き、給油の名目で午前8時59分に当初の目的地である板付空港に着陸した。なお実際は予備燃料が搭載されていたため、平壌まで無着陸で飛行することが可能であった。
 
[[日本の警察|警察]]は国外[[逃亡]]を阻止すべく機体を板付空港にとどめることに注力し、[[自衛隊]]機が故障を装い滑走路を塞ぐなどのいくつかの工作を行うが、かえって犯人グループを刺激する結果になった。焦った犯人グループは離陸をせかしたが、機長の説得によって人質の一部を解放することに同意。午後1時35分に[[女性]]・[[子供]]・病人・高齢者を含む人質23人が機を降りた。
 
=== 「北朝鮮」へ ===
同日午後1時59分、よど号は北朝鮮に向かうべく板付空港を離陸。機長が福岡で受け取った[[地図]]は中学生用の[[地図帳]]の[[複写|コピー]]のみで、航路の線も引かれていない大変に粗末なものだった。ただ、この地図の隅には「121.5MCを傍受せよ」(MCとはメガサイクルの略。現在の[[メガヘルツ]]と同じ。民間航空緊急用周波数)と書かれており、機長はこれに従って飛行した。
 
よど号は[[朝鮮半島]]の東側を北上しながら飛行を続け、午後2時40分、進路を西に変更した。この前後、突如よど号の右隣に国籍を隠した[[戦闘機]]が現れる。戦闘機の操縦士は機長に向かって親指を下げ、降下(または着陸体勢)に入るようにとの指示を行うと飛び去った(国籍を隠しておらず、[[軍|韓国空軍]]章を表示したままの戦闘機が現れたという説もある)。
 
よど号は[[38度線|北緯38度線]]付近を飛んでいた。実際にはよど号は北緯38度線を越えていたのだが、休戦ラインは完全に北緯38度線に沿っていないため、まだ韓国領の中にいた。のちに誤情報と判明するが、この際に北朝鮮側から機体に対し対空砲火が行われたとの情報が飛び交った。北朝鮮に入ったと考えた副操縦士は、指示された周波数に対して[[英語]]で「こちらJAL351便」と何度も呼びかけたが、なかなか応答が返ってこなかった。
 
その後、同機に対し「こちら平壌進入管制」という[[無線]]が入る。無線管制は、周波数を121.5MCから134.1MCに切り替えるよう指示し、機体は誘導に従う形で左旋回し、再び北緯38度線を跨いで南下した。これは韓国当局によるもので、機体を北朝鮮に向かわせないためのとっさの行動であった。機長の石田は周波数が[[資本主義]]圏で使用するものであったことから無線は平壌からでないことを悟ったが、犯人グループは、亡命希望先の北朝鮮の[[公用語]]である[[朝鮮語]]はおろか[[英語]]もほとんど理解できなかったため、これらのやりとりに対して疑問を呈することはなかった。
 
=== ソウルへ着陸 ===
[[ファイル:Gimpo_airport.jpg|thumb|right|220px|金浦国際空港]]
午後3時16分、同機は[[平壌国際空港]]とされる場所に着陸する。実際には韓国のソウル近郊にある[[金浦国際空港]]で、韓国兵は[[朝鮮人民軍]]兵士の服装をして、「平壌到着歓迎」の[[プラカード]]を掲げるなどの偽装工作を行っていた。
 
しかしメンバーの一人が金浦国際空港内に[[ノースウエスト航空]]機などが駐機しているのを発見し異常に気付く(この点については、「航空燃料タンクの商標」、「[[シェル石油]]のロゴのついた給油トラック」、「犯人グループが持っていた[[ラジオ]]をつけたら[[ジャズ]]や[[ロック (音楽)|ロック]]が流れた」、「[[ジープ]]に乗った[[ネグロイド]]の兵士がいる」、「[[フォード・モーター|フォード]]の車が動いている」、「北朝鮮の職員に偽装した韓国の警官が、『日本の[[大使]]が待っています』と発言した」など、諸説ある)。
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=== 交渉 ===
金浦国際空港に着陸後、韓国当局は犯人グループと交渉を開始。犯人グループは即座に離陸させるように要求したものの、韓国当局は停止した[[エンジン]]を再始動するために必要となるスターター(補助始動機)の供与を拒否。この結果、よど号は離陸することができなくなり、事態は膠着する。犯人グループは強硬な態度を保ったものの、[[食品|食料]]等の差し入れには応じた。
 
また、31日の午後には日本航空の特別機が[[山村新治郎 (11代目)|山村新治郎]]運輸政務次官ら[[日本国政府|日本政府]]関係者や日本航空社員を乗せて羽田空港を飛び立ち[[4月1日]]未明にソウルに到着。[[大韓民国の政治#行政|韓国政府]]の[[丁來赫|丁来赫]](チョン・ネヒョク)[[国防部 (大韓民国国防部)|国防部長官]]長官や[[白善ヨプ|白善燁]](ペク・ソニョプ)[[国土交通部|交通部長官]]、朴璟遠(パク・キョンウォン)[[行政安全部|内務部長官]]とともに犯人グループへの交渉に当たることになった。
 
=== 膠着状態 ===
この後、よど号の副操縦士が犯人グループの隙を見て、機内にいる犯人の数と場所、武器などを書いた[[紙コップ]]をコックピットの窓から落とし、犯人のおおよその配置が判明した。韓国当局はこの情報を基に[[戦闘警察|特殊部隊]]による突入を行うことも検討するが、乗客の安全に不安を感じた日本政府の強い要望で断念する。
 
[[日本政府]]は、[[ソビエト連邦]]や[[国際赤十字]]社を通じて、よど号が人質とともに北朝鮮に向かった際の保護を[[朝鮮民主主義人民共和国#政府|北朝鮮政府]]に要請した。これに対して北朝鮮当局は「[[人道主義]]に基づき、もし機体が北朝鮮国内に飛来した場合、乗員及び乗客は直ちに送り返す」と発表し、[[朝鮮赤十字会]]も同様の見解を示した。だが、韓国にとって、前年に発生した[[大韓航空機YS-11ハイジャック事件]]の乗員乗客がこの時点で解放されていなかったこともあり、よど号をその二の舞として人質の解放がなされないままに北朝鮮に向わせることは、絶対に避けなければならないことであった。
 
日本政府はさらに、犯人グループが乗員を解放した場合には、北朝鮮行きを認めるように韓国側に強く申し入れ、韓国側は最終的にこれを受け入れた。なお、よど号には日本人以外の外国籍の乗客としてアメリカ人も2人搭乗しており、北朝鮮に渡った場合、「敵国人」であるアメリカ人が[[日本人]]に比べて過酷な扱いを受ける懸念があったため、[[アメリカ合衆国連邦政府]]が善処を求めている。
 
=== 乗客解放 ===
1日午後には[[運輸大臣]][[橋本登美三郎]][[運輸大臣]]もソウルへ向かい、金山政英駐韓[[特命全権大使]]らとともに韓国当局との調整に当たった。数日間の交渉を経た[[4月3日]]に、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりとして人質になることで犯人グループと合意。犯人グループの1人である[[田中義三]]と山村が入れ替わる形で乗り込む間に乗客を順次解放し、最終的に地上に降りていた田中と最後の乗客1人がタラップ上で入れ替わる形で解放が行われた。また、乗員のうち[[客室乗務員]]も機を降りることが許された。解放された人質は日本航空の特別機の[[ダグラス DC-8]]-62(JA8040、飛騨号)で福岡空港に帰国した。
 
なお犯人側から山村政務次官の身元について[[日本社会党]]の[[阿部助哉]][[衆議院議員]]に証明を行ってほしい旨の依頼があり、[[4月2日]]に阿部議員がソウルに渡り、山村政務次官の人物証明を行った。
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=== 北朝鮮へ ===
[[ファイル:Sunan airport terminal.jpg|thumb|right|220px|平壌国際空港]]
4月3日の午後6時5分によど号は金浦国際空港を離陸、北緯38度線を越えて北朝鮮領空に入った。機長はこの時点でもなお、まともな地図を持たされておらず、北朝鮮領空に入った後も無線への応答や[[朝鮮人民軍空軍|北朝鮮空軍]]機による[[スクランブル|スクランブル発進]]もなかった。[[平壌国際空港]]を目指して飛行を続けたものの、夕闇が迫ってきたため、機長は戦争中に夜間特攻隊の教官をしていた経験を生かし、肉眼で確認できた小さな滑走路に向かい、午後7時21分に着陸した。この滑走路は平壌郊外にある[[朝鮮戦争]]当時に使用されていた{{仮リンク|美林飛行場|en|Mirim Airport}}跡地だったと言う。
 
対応した北朝鮮側は武装解除を求めたため、犯人グループは武器を置いて機外へ出た。なお、武装解除により機内に残された日本刀・拳銃・爆弾などは、全て玩具や模造品であったことが後に判明した。よど号に乗っていた犯人グループ9人、乗員3人、人質の山村の計13人の身柄は北朝鮮当局によって確保された。
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=== 亡命受け入れ ===
よど号が到着した後、北朝鮮側は態度を硬化させ、「乗員や機体の早期返還は保証できない」と表明。日本政府がなすべきことをせず、自分たちに問題を押し付けたとして非難した。また犯人グループと乗員、山村政務次官に対しては公開による尋問が行われ、長期間の抑留が想定される厳しい状況になった。ただし、乗員と山村に対して行われた尋問は形式だけのものであり、[[韓国料理|朝鮮料理]]の[[食事]]と個室が与えられた上で(「休みたい」という本人たちの意思は無視されたものの)、[[映画]]鑑賞が用意されるなどのもてなしが提供された。
 
[[4月4日]]、北朝鮮は再度日本を非難をする一方で、「人道主義的観点からとして機体と乗員の返還を行う」と発表。同時に“飛行機を拉致してきた学生”に対し必要な調査と適切な措置を執るとして、犯人グループの亡命を受け入れる姿勢を示した。これを受け、日本政府は北朝鮮に対し謝意を示す談話を発表した。
 
=== 人質帰国 ===
翌日[[4月5日]]早朝、乗員たちは出発準備のために美林飛行場へ移動する。ところが、北朝鮮にはボーイング727に対応するスターター(補助始動機)がなかったため、一時は出発が危ぶまれた。日本航空は[[モスクワ]]経由でエンジンスターターを届けるべく手配を開始したが最終的には圧縮空気ボンベを現地で調達し車両用のバッテリーで機内のバッテリーに充電を行いエンジンが始動できた。空港を離陸したよど号は、北朝鮮側から飛行経路を指示されそのエリアを通過後、日本国内上空からよど号を呼ぶ日航機を経由して無線で脱出を報告。直接羽田へ向かう事を連絡した機長、副操縦士、航空機関士、山村政務次官の4人を乗せて帰路に就き、[[美保飛行場|美保]]上空を経由し羽田空港に到着。彼らが無事に帰国したことにより事件は一応の収束を見た。
 
この日の朝にNHKが放送した報道特別番組はビデオリサーチ・関東地区調べで40.2%の視聴率を記録した<ref>『全記録 テレビ視聴率50年戦争—そのとき一億人が感動した』108-109ページ、227ページ。</ref>。