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[[268年]]、孫皓に合肥攻撃を命じられ、[[丁奉]]と共に軍を進めた。
 
[[280年]]、晋が六方向より大挙して攻めてきたので、諸葛{{JIS2004フォント|靚}}は[[大司馬]]・副軍師として[[丞相]][[張悌]]・[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽]][[太守]][[沈瑩]]・護軍将軍[[孫震 (孫呉)|孫震]]と共に三万の兵を率いて[[長江]]を渡り、晋の城陽[[都尉]]である張喬率いる7千の軍を包囲攻撃をしてこれを降伏させた。
諸葛{{JIS2004フォント|靚}}はこの際、張喬らは切羽詰って援軍が直ぐには来ないために一時的に降伏したに過ぎず、全員穴埋めにして全軍の士気を挙げるべきだと主張したが、聞き入れられなかった。
その後、沈瑩は青巾兵と呼ばれる精鋭5千を率いて晋の軍を攻撃したが、三度攻撃をかけても落とすことは出来ず、撤退しようとしたところで軍が混乱を起こし、それに乗じて晋軍が攻撃を仕掛けてきたため、沈瑩の軍は壊滅した。これを契機とし、呉の他の軍も次々に敗れ去り、一度は降った張喬らもやはり裏切って、背後から呉の軍を攻撃した。
諸葛{{JIS2004フォント|靚}}は5600の敗残兵を取りまとめて撤退しようとし、張悌の下に共に逃げるように使者を送ったが、張悌はその場を動こうとしなかった。
諸葛{{JIS2004フォント|靚}}は自ら赴いて張悌の袖を引っ張って説得し、撤退しようとしたが、張悌はこれを拒絶したため、涙を流して袖を離した。
張悌はそのまま晋軍に突撃し、戦死した。その後、諸葛{{JIS2004フォント|靚}}は孫奕らとともに司馬伷に降伏した。