「第四次対仏大同盟」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
-deleted image
粗製濫造 (会話 | 投稿記録)
17行目:
 
=== イエナ・アウエルシュタットの戦い ===
プロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]は、国力の差もあり、フランスとの開戦に必ずしも賛成ではなかったが、王妃[[ルイーゼ・シュトレーリッツ]]、プロイセン[[ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン (1772-1806)|ルイ・フェルディナント]]といった反ナポレオンの急先鋒はさかんに王を焚き付け、ついに開戦の決意を固めさせる。
 
プロイセンは軍の動員を開始したものの、作戦計画や指揮権の所在が明確でなかったため、動員は遅々として進まなかった。[[1806年]]9月26日、プロイセンはフランス軍のドイツからの撤退を要求する最後通牒を突きつけたが、これは前日の9月25日にナポレオンが[[パリ]]を発した後だった。こうしたプロイセン軍の初動の遅れは、フランス軍に態勢を整える時間を与えてしまう。