「榊原政殊」の版間の差分

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'''榊原 政殊''' (さかきばら まさよし、生年不詳 - [[享保]]7年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]([[1722年]][[71日]]))は江戸幕府の旗本。[[姫路藩]]榊原家の分家の一つにあたる。[[荒木政羽]]とともに[[赤穂城]]収城目付をつとめたことで知られる。幼名は'''七之丞''' (しちのじょう)。通称は'''主計'''(かずえ)、'''采女'''(うねめ)。官位は従五位下、'''周防守'''(すおうのかみ)。また榊原氏は[[足利氏]]の支流であるので本姓は[[清和源氏]]。したがって正式な名乗りは'''源政殊'''(みなもと・の・まさよし)となる。
 
 
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[[元禄]]14年([[1701年]])3月14日、[[赤穂藩]]主[[浅野長矩|浅野内匠頭長矩]]が江戸城中で[[吉良義央|吉良上野介義央]]に刃傷に及んだため、赤穂藩は改易にされる。3月28日政殊と[[荒木政羽|荒木十郎左衛門政羽]](1500石)が赤穂城の収城目付となった(幕府の[[目付]]職に就任したわけではないので注意)。[[赤穂城]]では浅野家筆頭家老[[大石良雄|大石内蔵助良雄]]から再三にわたってお家再興の嘆願を受ける。
 
[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])に[[日向国]][[延岡城]]が[[牧野成央|牧野備後守成央]]のものとなった際にも、久留崎通富とともに同地に入って城引渡しの任にあたる。[[正徳]]3年([[1713年]])8月28日書院番の組頭に昇進し、12月21日には布衣(六位相当になったことを意味する)を着用することを許された。[[享保]]4年([[1719年]])8月15日には京都に派遣されて[[霊元天皇|霊元上皇]]付きとなった。[[享保]]5年([[1720年]])1月3日に従五位下周防守に叙任。[[享保]]6年([[1721年]])10月4日に職を辞して寄合(無職の旗本)に列した。[[享保]]7年([[1722年]])5月18日に死去。湯島の凉智院に葬られた。法名は政殊。家督は長男の[[榊原政礼|政礼]]が継いだ。
 
==関連==