「テオドリック (東ゴート王)」の版間の差分

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== 死後の東ゴート王国 ==
孫[[アタラリック]]、テオドリックの三女でアタラリックの母[[アマラスンタ]]の治世中は東ローマ帝国との均衡を保っていたが、アマラスンタとテオドリックの甥[[テオダハド]]の対立といった内部抗争やアマラスンタ暗殺後の東ローマ帝国との約20年に渡る泥沼の死闘([[ゴート戦争]])を繰り広げた末に滅亡することになる。王国滅亡後も[[553年]]春から[[554年]]秋にかけての反乱([[東ゴート族]]と同盟を結んだブティリヌスとレウタリス(フランク王[[テウベルト1世]]の弟)が率いた[[アラマンニ族]]と[[フランク族]]の侵攻)、[[555年]]に最後の東ゴート部隊が[[コンプサ]]で降伏する(多くの兵士たちが[[フランク王国]]に亡命)といったように東ローマ帝国支配下での反乱は続いたが、[[561年]]ないし[[562年]]に[[イタリア北部|北イタリア]]にて反抗勢力を率いていた東ゴート貴族ウィディンが捕らえられて最後の反乱が鎮圧された後、東ゴート族は歴史の表舞台から姿を消した。テオドリックの死から約35年後のことだった。
 
== 霊廟 ==