「ディディエ・ピローニ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
54行目:
; 1982年
[[ファイル:Pironi celebrating at 1982 Dutch Grand Prix.jpg|thumb|right|220px|1982年オランダGPで優勝したピローニ]]
フェラーリのニューマシン・[[フェラーリ・126C2|126C2]]は戦闘力が大幅に上昇しており、第4戦[[1982年サンマリノグランプリ|サンマリノグランプリ]]ではフェラーリに移籍後初勝利を達成す挙げる。その後は混迷のシーズン([[#1982年の悲劇|後述]])において、第6戦[[1982年モナコグランプリ|モナコグランプリ]]から6戦中5戦で表彰台を記録し、うち第9戦[[1982年オランダグランプリ|オランダグランプリ]]でシーズン2勝目を記録。確実にポイントを伸ばし、第11戦[[1982年フランスグランプリ|フランスグランプリ]]終了時点では、9ポイント差でランキングトップにいた。
 
しかし、第12戦[[1982年ドイツグランプリ|ドイツグランプリ]]([[ホッケンハイムリンク]])で予選土曜午前フリープラクティス、どしゃ降りの雨で視界不良のコンディションだった中、およそ170マイル(時速273km/h)というハイスピードで前走車のタイヤ乗り上げ宙を舞う大クラッシュを喫して両足複雑骨折の重傷を負い、残る全レースの欠場を余儀なくされた。事故現場にいた者の目撃証言では飛行機事故の現場のようだったとされ、ピローニが命を取り留めていることが不可能と思うしかない現場だったという<ref>INSIDE F1 グランプリの真実 [[ナイジェル・ルーバック]]著 130頁 1982.8.26「ピローニの惨事」[[双葉社]]</ref>。最終的に[[ケケ・ロズベルグ]]にポイントを逆転されてランキング2位に終わり、ワールドチャンピオンを獲得出来なかった。
 
その後必死にリハビリを重ねたピローニは、事故翌年の1983年、ホッケンハイムで西ドイツグランプリに杖を必要としていたものの回復した姿を見せ<ref>INSIDE F1 グランプリの真実 ナイジェル・ルーバック著 176頁 1983.8.25「ピローニ12ヵ月後」双葉社</ref>、[[1986年]]に[[リジェ]]チームと[[AGS (F1)|AGS]]チームのマシンをテストを受けで走らせるなど、F1への復帰を目論むが望んでいた。1987年のパワーボート事故直後の報道では採用す翌1988年に向けローラシャシーで参戦してい[[ラルース (F1チームはなく)|ラルース]]チームとF1復帰は果たせなかっの契約が内定していともされる<ref>[[Racing On|レーシングオン]] 1987年10月号 [[武集書房]]</ref>
 
=== F1以後 ===