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以下は、'''[[メジャーリーグベースボール]](MLB)'''における[[1942年]]のできごとを記す。1942年[[4月14日]]に開幕し[[10月5日]]に全日程を終えた。[[ナショナルリーグ]]は[[セントルイス・カージナルス]]が6年ぶり6度目の優勝、[[アメリカンリーグ]]は[[ニューヨーク・ヤンキース]]が2年連続12度目の優勝。[[ワールドシリーズ]]はセントルイス・カージナルスがニューヨーク・ヤンキースを4勝1敗で破り8年ぶり4度目のシリーズ覇となった。
{{Main2|ここではMLBでのできごとのみ扱っています。野球全般のできごとについては[[1942年の野球]]を}}
 
== できごと ==
=== 第二次大戦勃発===
{{節stub}}
1941年12月7日(米国時間)、日本軍の真珠湾攻撃でアメリカは対日宣戦布告し、アメリカはヨーロッパ戦線と太平洋戦線で日独伊三か国との戦争に突入した。
 
ランディス・コミッショナーは真珠湾攻撃を受けてアメリカ国民が憤激し参戦に向かっていた直後にルーズベルト大統領に親書を送った。この時に野球界でも野球を続けるべきか否かの議論が起こっていたのである。ルーズベルト大統領はランディスに返書を送り「野球は続けて市民の娯楽を確保することが望ましい」と述べていた。しかし選手自身が進んで志願して戦場に行くことも多く、そして1942年のシーズンが始まった。前年最多勝(25勝)・最多奪三振(270)のタイトルを取った[[ボブ・フェラー]]は戦争勃発後すぐに海軍に入隊し、[[ハンク・グリーンバーグ]]もシーズン開始して19試合出場の後に自ら志願して航空隊に参加した。けれども戦争直後のこの年はルーズベルト大統領の野球存続の方針で、その影響は大きくなく順調にメジャーリーグは開催した。ただメジャーリーグとして価値のあるシーズンはこの年限りであった。
 
ランディスは選手の兵役免除を要求するオーナーやファンの声を聞きながら、国民世論の厳しい声にも対処しなければならなくなった。戦争の激化とともに野球選手も例外とするものではなくなり、翌1943年1月にコミッショナーとしての見解を出すこととなった。
=== シーズン ===
ナショナルリーグは、[[セントルイス・カージナルス]]が[[ブランチ・リッキー]]GMのファーム制度の強化で若手が育ち、2年目の[[スタン・ミュージアル]](打率.315)と[[イーノス・スローター]](打率.318)そしてテリー・ムーアらが台頭し、投手陣は[[モート・クーパー]] が最多勝(22勝)・最優秀防御率(1.78)を取り、弟ウォーカー・クーパー捕手とのバッテリーコンビがうまく機能してカージナルスはリーグ優勝し、[[モート・クーパー]]はリーグMVPにも輝いた。これら若手の活躍で戦中戦後の黄金期を迎えていた。
 
アメリカンリーグは、[[ニューヨーク・ヤンキース]]がディマジオ(打率.305・本塁打21本・打点114)、ケラー(打点108)、ゴードン(打点103)の100打点トリオの活躍でリーグ連覇となった。[[ジョー・ゴードン]]と[[フィル・リズート]]の二遊間コンビは併殺プレーに磨きがかかり守備の要となった。ただ投手陣はレフティ・ゴメスが衰えてレッド・ラフィングも下降線を辿っていた。
 
ワールドシリーズは、カージナルスの勢いがヤンキースを優り、初戦を落とした後に4連勝でシリーズを勝った。
* [[ボストン・レッドソックス]]の[[テッド・ウィリアムズ]]は前年は打率.406で4割打者となったが、この年は打率.356・本塁打36本・打点137で三冠王となった。しかしリーグMVPはヤンキースの[[ジョー・ゴードン]](打率.322・本塁打18本・打点103)であった。この年ゴードンは最多三振95と最多併殺打22を記録している。
* [[ボストン・レッドソックス]]はこの年[[テッド・ウィリアムズ]]が打率・本塁打・打点に最多得点(141)でもあり、ジョニー・ペスキーが最多安打(205本)、投手ではテックス・ヒューソンが最多勝(22勝)・最多奪三振(113)のタイトルを取っている。これでシーズンではヤンキースに9ゲーム差の2位に終わった。
* [[セントルイス・カージナルス]]の[[スタン・ミュージアル]]はこの前年の9月にメジャーデビューした日の試合でダブルヘッダーで6安打してわずか12試合で打率.426の成績となった。そして2年目のこの年には打率.315・本塁打10本・打点72で、リーグ優勝とシリーズ制覇を一度に味わった。そして翌1943年には首位打者となり、以降引退までに首位打者7回、打点王2回、リーグMVP3回に輝き、ナショナルリーグを代表する打者であり、ザ・マンとも呼ばれている。1958年に日米野球で来日した。
* [[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ジャイアンツ]]の[[メル・オット]]はこの年から選手兼任監督となり本塁打30本で本塁打王となった。1932年から11年間で本塁打王6回・打点王1回の一本足打法の左打者はこの翌年に通算500本の大台にのせたが、出場機会が減り、タイトルはこの年が最後となった。
== 最終成績 ==
=== レギュラーシーズン ===
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'''BBWAA投票'''
* [[ロジャース・ホーンスビー]]
== 出典==
* 『米大リーグ 輝ける1世紀 ~その歴史とスター選手~』 98P・100P参照 週刊ベースボール 1978年6月25日増刊号 ベースボールマガジン社
* 『メジャーリーグ ワールドシリーズ伝説』 1905-2000  上田龍 著  98P参照 2001年10月発行 ベースボールマガジン社
* 『アメリカ・プロ野球史』 122P参照 鈴木武樹 著 1971年9月発行 三一書房
* 『スポーツ・スピリット21 №11 ヤンキース最強読本』≪レジェンド ジョー・ディマジオ≫ 48-51P参照 2003年6月発行 ベースボールマガジン社
* 『オールタイム大リーグ名選手101人』≪テッド・ウイリアムズ≫ 172-173P参照  1997年10月発行  日本スポーツ出版社
 
== 関連項目 ==