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'''司馬 遐'''(しば か、[[273年]] - [[300年]])は、[[中国]]の[[西晋]]の[[宗室]]。清河康王。[[字]]は'''深度'''。初代皇帝[[司馬炎]](武帝)の子。生母は[[陳美人]](美人は後宮の位号)
 
== 経歴 ==
容姿や振る舞いが美しく、精彩があったので、司馬炎に寵愛された。
[[司馬炎|武帝]]と陳美人のあいだの子として生まれた。容姿や振る舞いが美しく、精彩があって、武帝に愛された。[[277年]]([[咸寧 (晋)|咸寧]]3年)、清河王に封じられた。叔父の城陽哀王[[司馬兆]]の後を継いだ。[[289年]]([[太康 (晋)|太康]]10年)、[[渤海郡]]を封邑とし、[[右将軍]]・散騎常侍・[[前将軍]]を歴任した。[[291年]]([[元康 (晋)|元康]]元年)、撫軍将軍の号を受け、[[侍中]]の任を加えられた。司馬遐は気弱で決断力に欠け、内向的な性格のために士大夫と接することができなかった。楚王[[司馬イ|司馬瑋]]が挙兵すると、司馬遐はその命を受けて[[衛カン|衛瓘]]を収監したが、衛瓘の旧部下である栄晦が衛瓘の子孫を殺害するのを、司馬遐は止めることができず、当時の非難の的となった。[[300年]]([[永康 (晋)|永康]]元年)、死去した。享年は28。
 
[[277年]]、[[清河郡|清河]]王に封じられ、叔父の城陽哀王[[司馬兆]]の後を継いだ。
 
[[289年]]、[[渤海郡]]を封邑とし、[[右将軍]]・散騎常侍・[[前将軍]]を歴任した。
 
[[291年]]、撫軍将軍に昇進し、[[侍中]]を加えられた。司馬遐は気弱で決断力も無く、内向的な性格のために士大夫とうまく接することができなかったという。
 
6月、[[恵帝 (西晋)|恵帝]](司馬衷)の皇后[[賈南風]]は国政を掌握していた汝南王[[司馬亮]]と[[録尚書事]][[衛カン|衛瓘]]を排斥するため、楚王[[司馬瑋]]に密詔を与えて彼らの捕縛を命じた。司馬瑋は自ら統括している北軍を動かして挙兵すると、司馬遐に衛瓘の逮捕を命じた。これを受け、司馬遐は衛瓘邸を包囲すると、衛瓘はこれと争わずに逮捕を受け入れた。司馬遐配下の帳下督[[栄晦]]はかつて罪を侵して衛瓘に罰せられた事があり、栄晦は私怨を晴らすために衛瓘と子の[[衛恒]]・[[衛嶽]]・[[衛裔]]と孫等9人を殺害した。司馬遐はこれを制止することが出来なかったので、当時非難の的となった。
 
[[300年]]、死去した。享年は28であった。子の[[司馬覃]]は後に皇太子に立てられた。
 
== 子女 ==
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== 伝記資料 ==
*『[[晋書]]』巻64 列伝第34
*『[[資治通鑑]]』巻82
 
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