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'''国会議事堂'''(こっかいぎじどう)は、[[国会 (日本)|国会]]が開催される[[建物]]。現在の建物は[[1936年]]([[昭和]]11年)に'''帝国議会議事堂'''として建設された。[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]一丁目にある。建物は[[線対称|左右対称]]形を成しており、正面に向かって左側に[[衆議院]]、右側に[[参議院]]が配置されている。
 
== 歴史takahasisyuusei ==
[[File:The First Japnese Diet Hall 1890-91.jpg|thumb|right|200px|第一次仮議事堂]]
[[File:The Second Japnese Diet Hall 1891-1925.jpg|thumb|right|200px|第二次仮議事堂]]
[[File:National Diet Hiroshima Temporary Building (external view).jpg|thumb|200px|広島臨時仮議事堂]]
[[File:Japanese Diet Hall Dedication Ceremony.jpg|thumb|right|200px|竣工式 1936年(昭和11年)11月7日]]ば9階建てである。また、[[線対称]]の建物である。
[[File:Japanese diet outside Kokkaigijido-1946.gif|thumb|200px|戦後の食料難で農場と化した議事堂前広場<br/>1946年(昭和21年)6月]]
 
現在の国会議事堂は[[1936年]]([[昭和]]11年)に竣工したが、その建設計画は[[明治]]にまで遡る。
 
[[1881年]](明治14年)[[10月12日]]、[[明治天皇]]から[[国会開設の詔]]が発せられ、[[1890年]](明治23年)を期して「國會」(議会)を開く事が表明された。その4年後の[[1885年]](明治18年)に[[内閣 (日本)|内閣]]制度が発足すると議事堂建設の取り組みが始まった。[[1886年]](明治19年)2月、[[内閣]]に臨時建築局が設立され、[[ドイツ帝国]]から[[建築家]]を招聘して[[官庁集中計画]]と[[議事堂]]の[[設計]]が成された。[[1887年]](明治20年)4月の[[閣議]]で、議事堂建築予定地が[[麹町区]]永田町一丁目(現・千代田区永田町一丁目の現在地)に決定されたが、官庁集中計画には多額の経費が必要であり、[[帝国議会]]の開設も切迫していたことから、この計画による議事堂建築は中止された。
 
こうして、麹町区[[内幸町]]二丁目(現・千代田区[[霞が関]]一丁目、現在の[[経済産業省]]敷地)に仮議事堂が建設された<ref>第一次仮議事堂の設計図2枚は[[2004年]]に発見され、現在は[[昭和女子大学]]で保管されている。この設計図は「国会仮議事堂」と記され、1枚縦約40cm、横約70cm、それぞれ絹布に1階と2階の平面図が黒と赤で描かれている。これによれば、幅約100m、奥行き約40mの建物であった。</ref>。ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラーおよび臨時建築局技師吉井茂則の設計による第一次仮議事堂は、第1回帝国議会[[召集]]前日の[[1890年]](明治23年)[[11月24日]]に竣工し、[[11月29日]]に[[貴族院 (日本)|貴族院]]議場で開院式が行われ、第1回帝国議会が開会された。[[会期]]中の翌[[1891年]](明治24年)[[1月20日]]未明に[[漏電]]により出火<ref>漏電と断定された当時の電燈会社は、冤罪だと抗議して裁判沙汰となっている。</ref>、仮議事堂は全焼した。このため貴族院議場を[[霞会館|華族会館]](旧[[鹿鳴館]])、後に[[帝国ホテル]]へ移し、[[衆議院]]議場を[[学校法人東京女学館|東京女学館]](旧[[工部大学校]])へ移して[[会期]]を終了した。その後、吉井と[[ドイツ]]人建築家オスカール・チーツェの設計による第二次仮議事堂が昼夜兼行の作業で第一次仮議事堂の跡地に再建され、同年[[10月30日]]に竣工した(第2回帝国議会は[[11月21日]]召集)。
 
[[1894年]](明治27年)8月には[[日清戦争]]が勃発、[[大本営]]が[[広島大本営|広島]]に移されると、[[広島臨時仮議事堂]]が約半月の突貫工事で広島に建設され、同年[[10月14日]]竣工、翌[[10月15日]]に召集された[[第7回帝国議会]]で使用された。東京以外で帝国議会(国会)が開会された唯一の事例である。
 
[[日露戦争]]後の[[1906年]](明治39年)には仮議事堂の改修および本格的な議事堂の建設が決まったが、[[大正政変]]により実施は延期された。さらに数年を経た[[1918年]]([[大正]]7年)9月になって新議事堂の[[意匠設計]]が一般公募されることになった。翌[[1919年]](大正8年)2月、応募作品118通中、一次選考・二次選考を通過した4図案の中から、[[宮内省]]技手の渡辺福三案(実際には宮内省[[内匠寮]]有志による案)が1等に選ばれた<ref>1等賞金は1万円であった。なお、3等1席の[[永山美樹]]案も宮内省内匠寮有志の案である。</ref>。当選案を参考に[[大蔵省]]臨時議院建築局が実際の設計を行い、デザインは大幅に変更された。[[1920年]](大正9年)1月30日に[[原敬]][[内閣総理大臣]]などが参列して、現在地である永田町の高台において[[地鎮祭]]を挙行、新議事堂の建設が始まった。
 
[[1923年]](大正12年)には[[関東大震災]]に見舞われたが、建設中の新議事堂および第二次仮議事堂は無事だった<ref>ただし、火災により大蔵省が焼失したため、新議事堂の設計図面の大部分と[[構造計算書]]、模型や標本が失われている。</ref>。しかし[[1925年]](大正14年)[[9月18日]]、仮議事堂は改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起こして焼失した。このため政府は第三次仮議事堂設置を決め、新議事堂の建設はさらに遅延することになった。仮議事堂は同年12月開会の通常帝国議会に間に合うよう[[9月29日]]に建設着手し、昼夜兼行の突貫工事でわずか3か月で建設され、同年[[12月22日]]に完成した。
 
新議事堂の完成が近づいた[[1936年]](昭和11年)[[2月26日]]には[[二・二六事件]]が発生、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。29日早朝に武力による鎮圧が決定されると、[[東京湾]][[台場|御台場]]沖には[[大日本帝国海軍|海軍]]の[[軍艦]]40隻が集結、永田町に[[艦砲射撃]]の照準を合わせて反乱軍を威嚇した。
 
こうした苦難を経て、新議事堂が[[広田弘毅]][[内閣総理大臣]]、[[富田幸次郎|冨田幸次郎]][[衆議院議長]]、[[近衛文麿]][[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]など約2800人の来賓を迎えて竣工式を迎えたのは、着工から実に17年を経た1936年(昭和11年)[[11月7日]]のことだった。
 
[[第二次世界大戦]]後に[[日本国憲法]]が制定され、帝国議会にかわる国会が国権の最高機関と位置付けられると、国会議事堂はその権威を象徴する施設となった。昭和30年代に入り、周辺の国有地が衆議院および参議院へ移管されるとともに、パレスハイツ(現・[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]庁舎)・ジェファーソンハイツ(現・[[衆議院議長公邸]]および[[参議院議長公邸]])・リンカーンセンター(現・[[国土交通省]]庁舎)等の米軍接収地も返還が決まったため、[[首都高速道路]]の整備と合わせて、国会議事堂の敷地拡張および周辺の区画整理が行われた。現在の議事堂周辺には衆参両院の[[議員会館]]や政党関係の施設が立ち並び、[[日本の政治]]の中枢となっている。
 
=== 議事堂の一覧 ===
* 第一次仮議事堂<ref>『帝國議會議事堂建築の概要』では第一回仮議事堂と表記されている。</ref>(第1回帝国議会)
** 1890年(明治23年)11月24日竣功。1891年(明治24年)1月20日焼失。[[木構造 (建築)|木造]]洋風2階建。
** 建築面積(附属建物を含む):8469[[平方メートル|m²]]、建築費:23万3868円79銭5厘、装飾費その他:2万1107円12銭1厘<ref name="写真帳">[http://www.ndl.go.jp/scenery/column/national-diet-building.html コラム:議事堂 写真の中の明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から -]、国立国会図書館</ref>
* 第二次仮議事堂<ref>『帝國議會議事堂建築の概要』では第二回仮議事堂と表記されている。</ref>(第2回 - 第6回、第8回 - 第50回帝国議会)
** 1891年(明治24年)10月30日竣功。1925年(大正14年)9月18日焼失。木造洋風2階建。
** 建築面積(附属建物を含む):1万6016m²、建築費:22万9424円10銭2厘、装飾費その他:2万5129円5銭<ref name="写真帳"/>
* 広島臨時仮議事堂([[第7回帝国議会]])
** 1894年(明治27年)[[10月14日]]竣功。木造板葺洋風[[平屋]]建。1897年(明治30年)までに解体。
* 第三次仮議事堂<ref>『帝國議會議事堂建築の概要』では第三回仮議事堂と表記されている。</ref>(第51回 - 第69回帝国議会)
** 1925年(大正14年)12月22日竣功。木造洋風2階建。現議事堂の完成に伴い解体。
** 建築面積(附属建物を含む):2万839m²、建築費:159万9974円、装飾費その他:48万2969円32銭<ref name="写真帳"/>
* 現議事堂(第70回 - 第92回帝国議会、第1回国会 - )
** 1936年(昭和11年)11月7日竣功。[[鉄骨鉄筋コンクリート構造|鉄骨鉄筋コンクリート造り]]地上3階(中央部分4階)、地下1階。
 
=== 国会議事堂と建築家 ===
[[File:Japanese Diet Hall Design by Fukuzo Watanabe.jpg|right|thumb|200px|渡辺福三による議事堂図案]]
* [[ヘルマン・エンデ]]、[[ヴィルヘルム・ベックマン]] - [[ドイツ]]の建築家。[[官庁集中計画]]の一環で議事堂の設計を行ったが実施されなかった。
* [[松崎万長]] - 内閣臨時建築局工事部長を務めた。
* 吉井茂則 - 内閣臨時建築局技師。外国人技師とともに第一次・第二次仮議事堂の設計を担当した(その後、[[内務省 (日本)|内務省]]技師、[[逓信省]]技師などを歴任)。
* [[妻木頼黄]] - 広島の仮議事堂を設計。日露戦争後に本建築建設の機運が高まり、1910年頃、臨時建築部で本建築の設計案をまとめた。建設が延期になったあと、1913年に官職を辞した。
* [[辰野金吾]] - [[東京大学|東京帝国大学]][[教授]]を経て、東京・大阪に[[建築設計事務所]]を開設。[[日本建築学会|建築学会]]会長を長く務めた。1908年に「議院建築の方法に就て」を公表し、議事堂の設計を公募で実施するよう、建築学会を中心に論陣を張った。議事堂の[[建築設計競技]](1918年)では審査員を務め、同年逝去。
* [[武田五一]] - 東京帝国大学[[助教授]]、[[京都帝国大学]]教授などを歴任。1908年、議院建築研究のため、[[矢橋賢吉]]とともに欧米を視察。嘱託として議事堂の設計に関わった。建築史家・[[鈴木博之]]は武田が設計した伊藤博文公銅像台座(神戸市)と議事堂ドームのデザインの関連を論じている(講談社現代新書『日本の地霊』など)。
* [[矢橋賢吉]] - 大蔵省技師。妻木の跡を継いで、国会議事堂の設計をまとめた中心人物。1927年の上棟式直後に逝去。
* [[大熊喜邦]] - 大蔵省技師。[[吉武東里]]とともに実質的な設計に当ったと言われる。矢橋の跡を継ぎ、国会議事堂の建設を進めた。
* [[渡辺福三]] - 宮内省内匠寮技手。内匠寮職員有志が議事堂の建築設計競技(1918年)に参加し、渡辺の名で応募した案が1等に当選した。
* [[吉武東里]] - 宮内省内匠寮技手。設計競技後に大蔵省技師。大熊とともに実質的な設計に当ったと言われる。
* [[下田菊太郎]] - 建築設計競技の結果を批判し、[[帝冠様式|帝冠併合式]]を提案した在野の建築家。
 
=== 営繕組織 ===
* 内閣臨時建築局(1886年 - 1890年、工事部長:松崎万長) 官庁集中計画
* 大蔵省臨時建築部(1905年 - 1913年、部長:妻木頼黄) 日露戦争後に設置
* 大蔵省臨時議院建築局(1918年 - 1925年、工務部長:矢橋賢吉)
* 大蔵省営繕管財局(1925年 - 1943年、工務部長:矢橋賢吉→大熊喜邦)
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* 大蔵大臣官房営繕課(1943年 - 1946年)
* 戦災復興院建築局営繕部(1946年 - 1948年)
* 建設省特別建設局営繕部(1948年 - 1949年)
* 建設省管理局営繕部(1949年 - 1952年)
* 建設省営繕局(1952年 - 1968年)
* 建設省大臣官房官庁営繕部(1968年 - 2001年)
* 国土交通省大臣官房官庁営繕部(2001年 - )
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== 構造 ==
[[File:Construction of Japanese Diet Hall March 1927.jpg|thumb|right|200px|鉄骨組立中の議事堂<br>1927年(昭和2年)3月]]
[[File:Japanese_Diet_Hall_Raising_Ceremony_1927.jpg|thumb|right|200px|[[上棟式]]<br>1927年(昭和2年)4月7日]]
[[File:National Diet Building-post.JPG|200px|right|thumb|国会議事堂内のポスト]]
 
国会議事堂は[[鉄骨鉄筋コンクリート構造|鉄骨鉄筋コンクリート造り]]。中央塔を除く大部分が地上3階建て、中央塔が4階建てで、塔屋最上部まで含めれば9階建てである。また、[[線対称]]の建物である。
 
長さ27 - 35[[尺]](約8.1 - 約10.6[[メートル|m]])、直径17[[インチ]](43.18[[センチメートル|cm]])の[[コンクリート杭]]を中央塔の下に568本、その他の部分に3738本打ち込み、その上に厚さ1m(中央塔は3m)の[[鉄筋コンクリート]]礎盤を置いて柱を支えている<ref name="大熊">大熊喜邦『帝國議會議事堂の建築を語る』</ref>。
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[[2008年]](平成20年)から[[2009年]](平成21年)にかけて、国会議事堂の竣工以来初めての大規模な修繕が行われている。議事堂外部では、専用洗剤と高圧洗浄で外壁の汚れを落としコーティングを施す作業と、窓ガラスを枠ごと取り換える作業が行われている。建物内では、議場の机の傷みの修復のほか、[[1970年]](昭和45年)以来行われてこなかった全議席の布地の張替えが実施されている。そのほか、[[2010年]](平成22年)5月には衆議院本会議場の議長席後側の階段に手すりが設置された。
 
== 構造kurarowa ==
== 国会議事堂内の主な施設と附属施設 ==
[[File:Japanese_diet_outside.jpg|thumb|right|200px|参議院側から見た国会議事堂]]
議事堂内の管理範囲としては、中央部の中央玄関、中央広間、御休所、中央塔が参議院の所管、玄関前庭が衆議院の所管、中央塔4階の[[国立国会図書館国会分館|国会図書館国会分館]]が[[国立国会図書館]]の所管となっている。