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その一方で、総員13万8千余人の越前一揆のうち丹生郡と越前海岸辺は約3万5千人を出したが<ref>[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-01-02-01.htm 『福井県史』通史編3 近世1「第二節 織田期の大名、二 一向一揆の越前支配 国中一揆の蜂起]「福井県文書館」HP 2015年3月9日閲覧</ref>、同年(天正4年)1月に丹生郡織田の寺社と関係者に対して、知行により刀の数量を決めて提出させる指令を出した。寺社は、知行に対する課役ととらえ、以前より知行高に対する諸役は免除されていることを理由に免除を願っている。
 
その中で信長の先祖が神官で氏神で関係の深い[[劔神社|織田神社]]へは対応が違い、領安堵の文書に、神社関係者に「刀さらへ」を免除するとした。これは後代に、江戸時代元禄期作の『[[明智軍記]]』に壮大に誇張して書かれ「[[九頭竜川]]に、'''刀狩'''の刀剣を溶かし鎖を作り船橋を渡した」という「船橋伝説」や「農具を製作した」などの説話が創作され、[[柴田神社]]に鎖が展示されるが、根拠は無い<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%88%80%E7%8B%A9  刀狩][[コトバンク]]</ref><ref>『刀狩り 武器を封印した民衆』藤木久志 P.45-47 2005年 岩波新書</ref>。(以上本節<ref>[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-02-01-04.htm 『福井県史』通史編3 近世1「第二節 織田期の大名、一 柴田勝家の越前支配「刀さらえ」]「福井県文書館」HP 2015年3月7日閲覧</ref>)
 
== 豊臣氏の刀狩令 ==
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* 第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
**また、没収された武器類は[[方広寺]]大仏殿の材料とすることが喧伝された{{Refnest|group="注"|これ以前の中世社会では、刀を仏にささげる宗教行為が一般化しており、前述した北条泰時の僧侶と従者の腰刀禁止の際や、1185年文治元年の奈良大仏の鎌倉再建の開眼供養会でも境内の熱狂した庶民が貴重品だった腰の刀を舞台に捧げている<ref>『大仏再建―中世民衆の熱狂』五味文彦 講談社選書メチエ 1995年</ref>。}}。
この刀狩り令の発給は、実質は九州諸侯と[[淡路国]]の[[加藤嘉明]]などの近侍大名武将の一部、畿内近国主要寺社に限られる。だが、[[豊臣政権]]の法令は、天正18年(1590年)8月10日の[[後北条氏]]の殲滅後の[[奥州仕置]]の諸政策総覧の確認のための[[石田三成]]あて朱印状では、刀狩りで「刀類と銃の百姓の所持は日本全国に禁止し没収した、今後出羽奥州両国も同様に命じる」とされ、秀吉は、基本的な法令を含め全国諸侯には出さないが、一度発布した法令は全国に適用し、どこの大名と各地域も拘束するものと捉えていた。<ref>山本博文『消された秀吉の真実―徳川史観を越えて』柏書房、所収 第3章「刀狩り令に見る秀吉法令の特質」2011年 p.94、110、11194、110、111-118</ref>
 
秀吉は、関白就任3か月前の[[1585年]]([[天正]]13年)3月から4月に[[根来衆]]・[[紀州征伐#秀吉の紀州攻め|雑賀一揆]]制圧戦で、戦参加の百姓を武装解除が前提で助命し耕作の専念を強いる、第1条、第3条に類似する指令を出して、すでに政策の原型はできており、歴史家の[[藤木久志]]から「原刀狩令」と名付けられている<ref>『刀狩り 武器を封印した民衆』藤木久志 2005年 P.56-57 岩波新書</ref>。同年6月にも[[金剛峯寺|高野山]]の僧侶に対して同様の武装放棄と仏事専念を指令し、10月実行させた。
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== 江戸時代の刀狩の展開 ==
後に江戸時代には[[長州藩]]など帯刀免許制も崩れた地域もあり、地方により規制に強弱が見られ、[[江戸幕府]]が当初には銃刀規制に積極的ではなかった。[[島原の乱|天草・島原一揆]]に、危機感を募らせた[[肥後藩]]の[[細川忠利]]の「全国への武具取り上げ」のたびたびの老中への提言にも動かない。逆に、天草一揆後、[[富岡藩|天草藩]]へ国替えになった[[山崎家治]]は前領主が集めていた一揆方の多くの武器、刀脇差1450本、鉄砲324挺の全てを幕閣の承認を得て、元の村内へ返却している。江戸町民も長刀・長脇差以外の一般の1尺8寸(約54cm)までの脇差の装備は1720年([[享保]]5年)でも布令は無くとも慣習として行われていた。そして1683年までは、旅立ち・火事・葬礼時の町民の帯刀二本差しも許容されていた。しかし、「[[文治政治]]」の導入に伴って、17世紀後半に再び[[帯刀]]規制に乗り出した。[[1668年]]([[寛文]]8年)江戸御用町人以外の帯刀を禁止し、後[[1683年]]([[天和 (日本)|天和]]3年)に江戸町民全ての帯刀を禁止して、それは全国的に拡大していき17世紀末には国中に広がった。ただし18世紀でも[[山城国 |山城地方]]など村頭と神主に日常、戦国時代以来の郷侍の家に祭礼時の帯刀を認めた例はある。しかし、百姓に日常帯刀は認めないという秀吉の刀狩りの原則は貫徹していたが、やがて豊かになった百姓により金で帯刀権は買えるようになり帯刀者は増えていき原則は一部崩れていく。だが、二本差し帯刀が身分表象であることは残る。そして、農村と町民には蓄えられた膨大な武器があった。<ref>『刀狩り 武器を封印した民衆』藤木久志 P.134-160 2005年 岩波新書</ref>
 
[[徳川綱吉]]の治世で行われた諸国鉄砲改めでは、村によってかなりのばらつきがあるものの、領内の百姓所持の鉄砲数が武士の鉄砲数をはるかに上回るような藩が多くあった<ref>塚本学『生類をめぐる政治』文庫版12-14頁。渡辺尚志『百姓たちの幕末維新』194-196頁。</ref>。
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明治時代には近代国家を目指した規制がされ、士族を含めた国民に公然とした帯刀を禁ずる[[廃刀令]]が出される。だが没収や所有を禁じたものではなかった。[[大礼服]]着用時と軍人、警察、官吏の勤務中の制服着用時のみ身分表象として帯刀を許した。銃については1872年明治5年[[銃砲取締規則]]を制定して免許した銃以外の所有を禁じた。<ref>『刀狩り 武器を封印した民衆』藤木久志 P.186-208 2005年 岩波新書</ref>
 
国民に所有される膨大な武器が大きく削減するのは、[[太平洋戦争]]敗戦後の、[[連合国軍最高司令官総司令部]]の占領政策による。1946年([[昭和]]21年)に「銃砲等所持禁止令」が施行され、[[狩猟]]用や[[射撃]]競技用以外の銃器類と、美術用以外の日本刀を所持することができなくなった。これにより300万もの刀剣が没収されたと文化庁は述べた。没収喪失した中には占領軍を恐れてやみくもに出された名刀も多く含まれた。また「GHQが金属探知機で探しにくる」という流言から、所有者が刀剣を損壊・廃棄したり、隠匿により結果腐朽させてしまったりした。それまでの銃刀の所有世帯への政策は占領終結後もほぼ引き続き行われ、禁止令が改められた[[銃砲刀剣類所持等取締法]]による許可・登録制と治安を重点とした対策となった。[[警察]]により、一層武器の取締りが厳しくなったが、1999年平成11年の段階で銃刀法による登録は、刀は231万2千本、銃器は6万8千挺に上る。[[太平洋戦争]]前の国民の所有する刀は計約500万本となり、敗戦直後には1500万世帯だったので戦前には平均3軒に1軒は刀を所有して身辺に刀が存在していたことになり、刀狩りが武装解除ではなかった象徴である<ref>『刀狩り 武器を封印した民衆』藤木久志 P.208-222 2005年 岩波新書</ref>。その後、犯罪対策で、特に銃器関連は厳しくなり所持するには通常少なくとも数か月期間の審査を受けることが必要となった。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* [[藤木久志]]『刀狩り <small>武器を封印した民衆</small>』([[岩波新書]]、2005年) ISBN 4-00-430965-4
* [[鈴木眞哉]]『刀と首取り <small>戦国合戦異説</small>』([[平凡社]]新書、2000年) ISBN 4-582-85036-7
*{{Cite|和書|author=[[萱野稔人]]|title=暴力と富と資本主義:なぜ国家はグローバル化が進んでも消滅しないのか|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4047318823|date=2016}}
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{{豊臣政権}}
 
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