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| subject = <!--主題-->
| movement = <!--文学活動-->
| notable_works = 『教育学』(1882-1883年)<br />『小学唱歌集』(1882-1884年)<br />『視話法』(1901年)
| awards = <!--主な受賞歴-->
| debut_works = <!--処女作-->
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'''伊沢 修二'''(いさわ しゅうじ、旧字体:'''伊澤'''、[[1851年]][[6月30日]]([[嘉永]]4年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[1917年]]([[大正]]6年)[[5月3日]])は[[明治|明治時代]]の[[日本]]の[[教育者]]、[[文部省|文部]][[官僚]]。近代日本の[[音楽教育]]、[[吃音]]矯正の第一人者である。[[雅号|号]]は楽石。
 
== 生涯 ==
[[信濃国]][[高遠城]]下(現在の[[長野県]][[伊那市]][[高遠町]])に[[高遠藩]]士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。幼名は弥八。父は20俵2人扶持の低禄の下級[[武士]]のため極端な貧乏暮らしだった(事実上1年4人で分け与えなけければならないこととなっている)。
 
[[1861年]]([[文久]]1)1年)から[[藩校]][[進徳館 (高遠藩)|進徳館]]で学び、[[1867年]]([[慶応]]3)3年)に[[江戸]]へ出府。[[ジョン万次郎]]に英語を学ぶ。万次郎が欧米に出張すると、[[1869年]](明治2年)に築地に転居した[[アメリカ合衆国長老教会]]の[[宣教師]][[クリストファー・カロザース|カラゾルス]]から英語を学ぶ。<ref>カラゾルス宣教師は1869年の年末までに伊澤たち若者に一日2時間半の授業を行う本格的な英語塾を開いた。これは、東京における最初のミッションスクールになった(『長老・改革教会来日宣教師事典』 63頁)。</ref>
 
[[京都]]へも遊学して[[蘭学]]などを学ぶ。同年には藩の[[貢進生]]として[[大学南校]](のちの[[東京大学]])に進学する。
 
[[1872年]](明治5)5年)には[[文部省]]へ出仕し、のちに[[工部省]]へ移る。[[1874年]](明治7)7年)に再び文部省にもどって[[愛知第一師範学校|愛知師範学校]](現在の[[愛知教育大学]])校長となる。1875年(明治8)8年)には[[師範学校]]教育調査のために、[[神津専三郎]]、[[高嶺秀夫]]と[[アメリカ合衆国]]へ留学、[[マサチューセッツ州]]{{仮リンク|ブリッジウォーター州立大学|label=ブリッジウォーター師範学校|en|Bridgewater State University}}で学び、同時に[[グラハム・ベル]]から視話術を、[[ルーサー・ホワイティング・メーソン|ルーサー・メーソン]]から音楽教育を学ぶ。同年10月には[[ハーバード大学]]で理化学を学び、地質研究なども行う。[[聾唖教育]]も研究する。[[1878年]](明治11)511年)5月に帰国。
 
[[1879年]](明治12)312年)3月には[[東京高等師範学校|東京師範学校]](現在の[[筑波大学]])の校長となり、[[音楽取調掛]]に任命されるとメーソンを招く。来日したメーソンと協力して[[西洋音楽]]を日本へ移植し、『[[小学唱歌集|小學唱歌集]]』を編纂。[[田中不二麿]]が創設した[[体操伝習所]]の主幹に命じられる。[[1886年]](明治19)319年)3月、文部省編輯局長に就任。[[1888年]](明治21)21年)には[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現在の[[東京芸術大学]][[音楽学部]])、[[東京盲唖学校]](現在の[[筑波大学附属視覚特別支援学校]])の校長となり、国家教育社を創設して忠君愛国主義の[[国家教育]]を主張、[[教育勅語]]の普及にも努める。
 
[[内閣]]制度が発足し、[[1885年]](明治18)18年)に[[森有礼]]が文部大臣に就任すると、[[教科書]]の編纂などに務める。[[1890年]](明治23年)に[[国立教育社]]を組織して国家主義教育の実施を唱導し、翌年に文部省を非職となってからは更に[[国立教育運動]]に力を注いだ。その後、[[1892年]](明治25)825年)8月に[[国立教育期成同盟]]を結成して小学校教育費国庫補助運動を開始する。[[1894年]](明治27)27年)の[[日清戦争]]後に日本が[[台湾]]を領有すると、台湾へ渡り[[台湾総督府民政局]][[台湾総督府文教局|学務部長]]心得に就任、植民地教育の先頭に立っている。[[1895年]](明治28)628年)6月に、[[台北]]北部の[[芝山巌]](しざんがん)に小学校「[[芝山巌学堂]]」を設立。翌[[1896年]](明治29)129年)1月、伊沢が帰国中に、日本に抵抗する武装勢力に同校が襲撃され、6名の教員が殺害される事件が発生した(芝山巌事件)。
 
[[1897年]](明治30)30年)には[[貴族院 (日本)#勅選議員|貴族院勅選議員]]。晩年は[[高等教育会議]]議員を務めたほか、吃音矯正事業に務め、1903年に[[楽石社]]を創設。1917年、[[脳出血]]のため67歳で死去<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)3頁</ref>。
 
墓所は[[雑司ヶ谷墓地]]。
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*『[{{NDLDC|809646}} 学校管理法]』 白梅書屋、1882年3月
** 『[{{NDLDC|809649}} 学校管理法続編]』 白梅書屋、1882年9月
** 『[{{NDLDC|809650}} 再版合巻 学校管理法]』 白梅書屋、1882年10月3
** 『学校管理法』 [[国書刊行会]]〈明治教育古典叢書〉、1981年4月
** 『学校管理法』 芳文閣、1992年2月
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** Translated by Institute of Music. Extracts from the report of S. Isawa, director of the Institute of Music, on the result of the investigations concerning music, undertaken by order of the Department of Education. Tokio Japan. 1884.2.
** 『[{{NDLDC|854781}} 音楽取調成績申報要略]』 [[東京音楽学校]]、1891年3月
** [[山住正己]]校注 『洋楽事始 : 音楽取調成績申報書』 [[平凡社]]〈[[東洋文庫 (平凡社) |東洋文庫]]〉、1971年6月、ISBN 4582801889
** 『音楽取調成績申報書』 大空社〈音楽教育史文献・資料叢書〉、1991年10月、ISBN 4872367014
* 『[http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=40073422F 小学唱歌]』 大日本図書、1892年3月壱 / 1892年5月二 / 1893年8月巻之三・巻之四 / 1893年9月巻之五・巻之六
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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{{筑波大学学長|東京師範学校長補・校長:1878年 - 1881年)<br />(体操伝習所主幹:1878年 - 1879年)<br />(高等師範学校長:第7代:1899年 - 1900年}}
{{東京芸術大学学長|音楽取調御用掛・掛長・所長:1879年 - 1886年)<br />(東京音楽学校長:1888年 - 1891年}}
{{貴族院請願委員長}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:いさわ しゆうし}}
[[Category:日本の教育者]]