「中西悟堂」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 幼少・青年期 ===
[[1895年]](明治28年)、[[石川県]][[金沢市]]長町に生まれ、富嗣と命名される。祖父は[[加賀藩]]士<ref name="iguchi">[http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/inokuchitetsuro.html  科学者の文藝 ─評伝・石川県出身の三人─]井口哲郎、日本ペンクラブ、Jan. 23, 2002</ref>。父親は海軍軍楽隊教官だったが、悟堂の生後まもなく病死し、母は実家に帰ったまま行方不明となり、父の兄である伯父・悟玄の養子となる<ref name="iguchi"/>。
 
[[1900年]]、富嗣が5歳の時、[[東京府]][[麻布区]]飯倉町の小暮小学校に入学する<ref name="iguchi"/>。同小学校は、[[江戸時代]]の[[寺子屋]]から続く伝統ある[[私立学校|私立校]]<ref>[{{NDLDC|1920436/255}} 創立80年の小学校]新聞集成明治編年史第十三卷、林泉社、1936-1940</ref>である。
 
[[1907年]](明治40年)、養父と祖母とともに神代村(現在の[[東京都]][[調布市]])の[[祇園寺 (調布市)|祇園寺]]に移住する。
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それまで日本人の野鳥とのかかわりは飼い鳥として籠の中の鳥の鳴き声や姿を楽しむか、狩猟や食肉の対象としているものであった。悟堂はそのような習慣をやめて「野の鳥は野に」と自然の中で鳥を楽しむことを提唱した。その考えには少年時代からの仏教教育に基づいた万物に命が宿るといった[[自然観]]の影響が見られる。日本には「花鳥風月」の言葉どおり鳥をテーマにした文芸、絵画の歴史は長い。悟堂は短歌や詩などの文芸あるいは絵といった方法で、鳥の愛護と保護を一般大衆に訴える雑誌を構想した。
 
[[1934年]](昭和9年)、誌名を「野鳥」と命名。悟堂が編集責任者となるが、実際の会誌の編集実務は、大正から昭和初期にかけ民俗、考古学や山岳関係の名著を多数世に送り出した岡書院店主、[[岡茂雄]]が担った。最初、岡は固辞したものの、中西の懇請を入れる形で創刊号の編集と刊行作業に当たり、1934年(昭和9)59年)5月の創刊号から1935年(昭和10年)9月まで、岡が山岳関係の書籍を扱った梓書房の名義で刊行される事となった。
 
岡によれば、創刊号の編集では、中西が字数の勘定などが不得手なため編集がはかどらず、やむなく岡が中西宅へ足を運んでは実務をこなした。また、創刊当初は「野鳥(やちょう)」と言う言葉が知られておらず、「のどり」と読む人が多かったと言う。[[1944年]](昭和19年)9月、戦前の物資不足により用紙の配給が止まったことや、悟堂が[[福生市|福生町]]へ移住したことを機に機関誌『野鳥』も停刊となるが、1947年(昭和22年)に日本野鳥の会の活動再開と同時に再刊して今日に至る。
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*詩集 武蔵野 (抒情詩社 1925年)
*抒情小曲集 かはたれの花 (紅玉堂書店 1925年)
*東西偉人の幼時 (紅玉堂書店(小学国史物語) 1926年) (近代デジタルライブラリーで公開(許諾))[{{NDLDC|1169339}}]
*評釈大正詩読本 (全4巻 紅玉堂書店 1926年)
*評釈詩読本 日本編 (紅玉堂書店 1927年)
*芭蕉の俳句と其一生 (交蘭社 1928年)
*藁家と花 武蔵野随筆集 (詩集社 1928年) (日本詩人叢書)
*啄木の詩歌と其一生 (交蘭社 1928年)
*虫・鳥と生活する (アルス 1932年)
*山岳詩集 (朋文堂 1934年)
*野鳥と共に (巣林書房 1935年)のち角川文庫 
*昆虫読本 (巣林書房 1936年)
*鳥虫歳時記 (高山書院 1941年)
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{{DEFAULTSORT:なかにし ことう}}
[[categoryCategory:日本の鳥類学者]]
[[Category:日本の詩人]]
[[Category:天台宗の僧]]