削除された内容 追加された内容
175行目:
{{quotation|{{lang|zh-Hant|二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。}}|『宋書』巻九十七}}
{{Wikisourcelang|zh|宋書/卷97}}
 
石井正敏は、本紀には、月日や「安東大将軍に進号」するとまで具体的な記述があるから信頼できるという常識的理解のうえで<ref>{{Harvnb|石井|2005|p=167}}</ref>、「(倭国)王如故」とないこと、「『安東』将軍如故」とある夷蛮伝の高句麗王・百済王との著しい異例から、倭国伝元嘉28年条原文には誤脱があるのではないかとして、元来「二十八年、加使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、進号安東大将軍。王如故。」と記述されるべきものが、いずれかの時に誤脱が生じた結果、「二十八年、加使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍如故。」と伝わった可能性を指摘している。石井正敏は、原文の誤脱の安易な主張は慎まなければならないが想定する十分な根拠があり、 夷蛮伝は早くに散逸し、遠く10世紀の[[趙匡胤]]の[[宋 (王朝)]]時代に補われた可能性が指摘されていることを挙げており<ref>{{Harvnb|石井|2005|p=167}}</ref>、したがって元嘉28年に済が得た将軍号は本紀の通り「安東大将軍」であり、高句麗王(征東大将軍)・百済王(鎮東大将軍)と倭王(安東将軍)に差があったとする主張には従えないと述べている<ref>{{Harvnb|石井|2005|p=167}}</ref>。
 
== 脚注 ==