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Tomneko (会話 | 投稿記録)
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== 「崔杼弑君」 ==
「弑」は逆臣が王を殺すことを意味する。『[[春秋左氏伝]]』には崔杼が荘公を殺害したのち、斉国の太史(歴史記録官)と崔杼の間にあった出来事についての簡潔な記述がある<ref>『[[春秋]]』本文(経文)の「夏五月乙亥 崔杼弑其君光」に対する注釈。『史記』「斉太公世家」 にも「太史書曰崔杼弒公、崔杼殺之。其弟復書、崔杼復殺之。少弟復書、崔杼乃之。」とある。</ref>。
 
{{Quotation|史書曰 崔杼弑其君 崔子殺之 其弟嗣書 而死者二人 其弟又書 乃之 南史氏聞史盡死 執簡以往 聞既書矣 乃還|春秋左氏伝 襄公二十五年}}
 
(太史が『崔杼、其の君を弑す』と事実を史書に書いたので、崔杼はこれを殺した。後をついだ太史の弟も同じことを書いたので、二人目も殺された。しかし彼らの弟はまた同じことを書き、とうとうこれを(ゆる)した。太史兄弟が殺されたことを聞いた別の史官は『崔杼其の君を弑す』と書いた竹簡を持って駆けつけたが、すでに事実が記録されたと聞いて帰った)
 
崔杼と太史たちの故事は中国人が[[歴史]]を記すという行為にかける執念を表す例としてしばしば引き合いに出され、また荘公が殺された後の晏嬰の行動が、これも晏嬰の義に対する一途さの逸話として良く語られるために、崔杼は単なる逆臣とされるにとどまらず、一層悪名が強調され後々まで語られることになった。