「賤ヶ岳の戦い」の版間の差分

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[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]([[6月6日]])、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、[[岐阜城]]下へ進出した。ここに来て近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられることになった秀吉は翌[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[6月7日]])美濃に進軍するも、[[揖斐川]]の氾濫により[[大垣城]]に入った。秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・[[佐久間盛政]]の意見具申もあり、[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]([[6月9日]])、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは[[中川清秀]]であったが、耐え切れず陥落、清秀は討死。続いて[[黒田孝高]]の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。盛政はさらに岩崎山に陣取っていた[[高山右近]]を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の[[豊臣秀長|羽柴秀長]]の陣所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず何故か盛政はこれに従おうとせず、前線に軍勢を置きつづけた。
 
[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]([[6月10日]])、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、[[桑山重晴]]も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって[[琵琶湖]]を渡っていた[[丹羽長秀]]が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2,000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功する。
 
さらに同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。これを[[美濃大返し]]といい、14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52キロの距離をわずか5時間で移動した。<ref>この急激な行軍速度を成功させた理由については諸説あるが、『[[川角太閤記]]』の「近辺の百姓に命じてあらかじめ沿道に[[松明]]を点けさせ、握り飯を用意させていた」という説が採用され場合が多い。</ref> 秀吉軍が戻って来ることを佐久間側も知っていたが、その軍行の速さを知ったとき「そんなまさか秀吉が、いかに[[天魔]]といえども、まだ戻って来るまい」と言いおおいに驚いたという。佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されたが奮闘。盛政隊を直接は崩せないと判断した秀吉は柴田勝政(盛政の実弟)に攻撃対象を変更、この勝政を盛政が救援するかたちで、両軍は激戦となった。
 
ところがこの激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。理由これ諸説あるが、秀吉とは[[織田信長|信長]]部下時代勧誘に利家が早くからの親友であっ応じていが、一方から[[柴田勝家|勝家]]と一貫して主従関係にあったこと、この相関関係に耐えきれったいうのが一番有力な説であ推測され<ref>[[高柳光寿]]『賤ヶ岳之戦』</ref>。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は崩れ、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。
 
=== 北ノ庄、岐阜、長島城の落城と信孝自害 ===
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* {{Cite book|和書 |author=[[高柳光寿]] |year=2001 |month=1 |title=戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い |publisher=学習研究社 |pages= |isbn=4059010251}}
* {{Cite book|和書 |author=[[神田千里]] |year=2002 |month=8 |title=日本の中世11 戦国乱世を生きる力 |publisher=[[中央公論新社]] |pages= |isbn=4-12-490220-4 |ref=戦国乱世を生きる力(2002)}}
* {{Cite book|和書 |author=[[岡田秀文]] |year=2010 |month=4 |title=賤ヶ岳 |publisher=[[双葉社]] |pages= |isbn=9784575236903}}
* {{Cite book|和書 |author= |year=2010 |month=11 |title=賤ヶ岳合戦図屏風 |series=週刊 絵で知る日本史 5号 |publisher=[[集英社]] |pages=[[ASIN]] B0047O2SFK |isbn=}}