「ジャン・モネ」の版間の差分

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[[第一次世界大戦]]時、モネはロンドンで活動していた。1919年から1923年にかけて、モネは[[国際連盟]]の事務次長を務め、その後は1938年まで[[コニャック (コミューン)|コニャック]]で家業を営んでいた。1932年以降、モネは国際的にさまざまな分野で重要人物として提言し、世界各地で影響力を持つようになっていた。
 
[[第二次世界大戦]]のさいには、モネはフランスと[[イギリス]]の軍事物資の管理に関する共同委員会の特別委員長に就任し、終戦後はフランスの復興に関して要職に就き、[[モネ・プラン]]を立案した。その中で西ヨーロッパの鉱工業の共同化構想が持ち上がり、1950年5月9日、当時のフランス外相[[ロベール・シューマン]]がこの構想を政府声明、いわゆる[[シューマン宣言]]として国内外に発表する。
 
モネはシューマン構想を協議する場の議長を務め、協議の結果、[[欧州石炭鉄鋼共同体]]が設立されることになった。
 
1952年から1954年まで、モネは欧州石炭鉄鋼共同体の最高機関(のちの[[欧州委員会]])の初代委員長を務める。
 
このような経歴を重ねることで、モネはヨーロッパ経済の発展に大きな影響力を持つようになり、また政治手腕についても1975年に活動を引退するまで国際的に高い評価を受けていた。
 
モネは[[ド・ゴール]]の事を酷く嫌っており、ド・ゴールは彼の事を「統合されたヨーロッパはフランスにもフランス人にも合うはずがなかった… モネのようなアメリカの事を第一に考える病的な人を除いては」と評していた<ref>{{citeweb|title=Ce que de Gaulle disait de l'Europe intégrée, de Monnet etc (pour en finir avec la gaulloparade)|url=https://www.observatoiredeleurope.com/Ce-que-de-Gaulle-disait-de-l-Europe-integree-de-Monnet-etc-pour-en-finir-avec-la-gaulloparade_a33.html|accessdate=2010年11月9日}}</ref>。
 
== 表彰 ==