「井上成美」の版間の差分

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校長・教頭に次ぐ兵学校のナンバースリーである<ref>『阿川』 377頁。</ref>企画課長の小田切政徳中佐は、着任直後の井上から「柔道場2棟・剣道場2棟を建設中だが、4棟が隣接し過ぎており、1棟が火災を発すると、他棟に直ちに延焼するだろう。この配置は危険だ」「そもそも、こんな大道場を2棟づつも建てるより、剣道などは練兵場に出てやった方が良いだろう。見直しは出来ないか?」という旨の指摘を受けたが、既に道場の基礎工事がほとんど終わり、建築資材の搬入と加工が始まっている状態であったので「この道場は4棟とも訓育上絶対必要であり、明年([[1943年]](昭和18年)の75期の入校に間に合わせて欲しい、と生徒隊から強く要請されているのです」という旨を答え、何とか井上の了解を得た。しかし、[[1944年]](昭和19年)1月-3月に完成した4棟の大道場は、同年11月15日に、第二剣道場の風呂場から発した火災で、4棟とも全焼した。小田切は「もし、井上校長の着任がもう少し早く、(武道場の)土台建設以前であったなら、なんとか取り止めにするか、道場一対(剣道場・武道場一対)だけにするか、生徒隊を説得したと思います。今も心残りに思えてなりません」と回想している<ref>『伝記』 355-356頁。</ref>。小田切は、第四航空戦隊の先任参謀から、[[1942年]](昭和17年)7月に兵学校に転じ、戦中の2年7か月を兵学校企画課長として過ごした。戦後の井上を、その死に至るまで支え続け、井上の死後も井上の孫の丸田研一と交誼を保った。<ref>『わが祖父-井上成美』 42・113-119頁。</ref>
 
井上は主立った教官20人ほどと会食し、井上が退席した後、教官たちが飲み直しを始め、校長官舎に電話して「校長も二次会へちょっと如何ですか」と誘ったが、井上は「そういう席へ私は出ない」とあっさり電話を切った<ref>『阿川』 378-380頁。</ref>。校内の雑用係の「ボーイ」([[国民学校]]を卒業後に上級学校に進めなかった少年たちで、15-16歳程度だった)に、何とか教育の機会を与えたいと考え、希望者を募って20人くらいの班を2つ作り、午後3時から5時まで2時間の授業を1日おきに実施した。課目は、井上が、少年たちに一番大事と考えた数学と英語の2科目とし、講師には兵科予備学生出身の武官教官を充てた。戦後に、兵学校の元・文官教官、「ボーイ」達が授業を受けている時に井上がしばしば視察に来ていたこと、終業式で成績優秀者に与えられる英英辞典が、井上のポケットマネーで提供されていたことを語っている。その元・文官教官は、戦後に広島大学を訪れた時に、この教育を受けた「ボーイ」の一人が、理科関係の助手を務めているのに出会った<ref>『伝記』 371-372頁。</ref>。
 
===== 教育の一系化 =====
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