「猿飛佐助」の版間の差分

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== 架空説と実在説 ==
<!---小説家の説は不要です。[[Wikipedia:信頼できる情報源]]。[[司馬遼太郎]]は、小説『[[風神の門]]』において「[[明治]]末期~[[大正]]年間に立川文庫の作者達が創った」とする説を紹介し、「猿飛佐助の命名は、[[玉田玉秀斎|玉秀斎]]を中心とした作家グループ達が行った」との説を補筆している。それを司馬は「半ば真実かもしれない」と理解を示した上で、「すでに江戸時代には大阪の庶民の間で語り継がれていた」とする[[岡本良一]]の異説を紹介し、『[[淡海故録]]』および『[[茗渓事蹟]]』を出典に、「三雲新左衛門賢持の子、三雲佐助賢春が猿飛佐助である」と実在説を支持している(三雲佐助賢春は[[六角氏]]の重臣である[[三雲成持]]の甥にあたる)。--->
 
『審訓清正実記』には「木下藤吉郎([[豊臣秀吉]])が[[金ヶ崎の戦い]]の退き口で殿(しんがり)を務め、[[浅井長政|浅井]]・[[朝倉義景|朝倉]]軍の追撃から逃げて京に至る朽木越えの際に、猿飛仁助が率いる3000名の盗賊に襲われようとしていた」とある。既に藤吉郎の軍は戦う気力さえなかったが、[[蜂須賀正勝|蜂須賀小六]]の配下である日比六大夫(日比野六大夫)が猿飛と旧知の仲だったため、この時、猿飛に盗賊をやめて藤吉郎配下へ加わり一緒に天下を取るよう誘った。猿飛仁助はこの説得を受け入れて藤吉郎の家来となり、それ以来、猿飛一族は太閤秀吉の天下取りの陰の力となった。{{要出典範囲|date=2016年7月|猿飛佐助とはこの猿飛仁助の子孫であると考えられる。または猿飛佐助とは『清正実記』の猿飛仁助をモデルとして制作された架空の人物である可能性が高い。}}