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=== ゴールデンソーンのインタビュー ===
ニュルンベルク裁判中にレオン・ゴールデンソーンから受けたインタビューの中でヒトラー政権に参加した理由について、経済的混乱の中でドイツ国民は中産階級政党も社会民主党も信じなくなり、選択肢は共産主義かヒトラーしかなくなっていたとしたうえで次のように語った。
ニュルンベルク裁判中にレオン・ゴールデンソーンから受けたインタビューの中でヒトラー政権に参加した理由について、経済的混乱の中でドイツ国民は中産階級政党も社会民主党も信じなくなり、選択肢は共産主義かヒトラーしかなくなっていたとしたうえで次のように語った。「共産党員は神は無意味で不合理と吹聴し、無理からぬ国民感情をないがしろにして国際主義を唱道した。対してヒトラーは共産主義が否定した二つの物、国家の尊厳と宗教を擁護しようとした。」「最終的にヒトラーは宗教に背信し、国民主義を返上することによって全ての人を裏切り、自分の理念さえも裏切ったので、今となっては皮肉なことだが、当時は誰もがヒトラーを信じた。1932年7月にはヒトラーが全議席の四割を獲得した。ドイツの歴史上一つの政党がこれほどの議席を獲得した例はなかった。」「その時点でヒトラーの悪人ぶりを知る者はいなかった。彼が国民を裏切るとは誰も思っていなかった。」「私について言えば民主的な思想を持ち、民主的な手法や議会運営に慣れていただけに選択の余地はなかった。」「1932年7月にヒトラーが当選すると彼が合法的に国民から選ばれたという事実を受け入れるしかなかった」「ヒトラーなんかお呼びじゃないと言ってしまえば私は一民間人の立場に引かざるをえなかっただろう。私は祖国のために働きたかったのだ。」「引退して一市民として暮らしたり、彼一人に権力を握らせておいたりしたら、彼の行動にブレーキをかけることなどできない。それなら現場にいて彼の行く手を阻む方がずっと利口ではないか」「彼の政策が非道徳的であることは明らかだったし、私は1935年頃から疑念を持ち始めていた。そして教会の弾圧、[[ゲシュタポ]]、ユダヤ人問題といった非合法的な事柄や一般的良識に反するその他諸々に関して機会あるごとにヒトラーに抗議した。公私の区別なく、本人に面と向かって反論したのだ。信じてもらえるかは別として、私はそれをやった唯一の人間だ。聖職者、政治家、科学者、実業家の誰一人として私が公私にわたって彼に言ったことを彼に言おうとしなかった。」「私は彼が戦争をしようとしていると察知して経済相を辞任した。ヒトラーは無任所大臣のポストに留まるなら辞表を受理すると言った。彼は自分の犯罪的な政府と国際的に有力で信用される経済学者・銀行家 ―つまり私― との間に対立がないことを世界にアピールしたがっていたのだ。私がこの条件を呑まねば彼は辞表を受理しなかった。さらに私は国立銀行から国への融資も停止した。それ以上私になにができたのだ。どこが問題だというのかね。」{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=162-168}}。
 
ニュルンベルク裁判中にレオン・ゴールデンソーンから受けたインタビューの中でヒトラー政権に参加した理由について、経済的混乱の中でドイツ国民は中産階級政党も社会民主党も信じなくなり、選択肢は共産主義かヒトラーしかなくなっていたとしたうえで次のように語った。「共産党員は神は無意味で不合理と吹聴し、無理からぬ国民感情をないがしろにして国際主義を唱道した。対してヒトラーは共産主義が否定した二つの物、国家の尊厳と宗教を擁護しようとした「最終的にヒトラーは宗教に背信し、国民主義を返上することによって全ての人を裏切り、自分の理念さえも裏切ったので、今となっては皮肉なことだが、当時は誰もがヒトラーを信じた。1932年7月にはヒトラーが全議席の四割を獲得した。ドイツの歴史上一つの政党がこれほどの議席を獲得した例はなかった「その時点でヒトラーの悪人ぶりを知る者はいなかった。彼が国民を裏切るとは誰も思っていなかった「私について言えば民主的な思想を持ち、民主的な手法や議会運営に慣れていただけに選択の余地はなかった「1932年7月にヒトラーが当選すると彼が合法的に国民から選ばれたという事実を受け入れるしかなかった」「ヒトラーなんかお呼びじゃないと言ってしまえば私は一民間人の立場に引かざるをえなかっただろう。私は祖国のために働きたかったのだ「引退して一市民として暮らしたり、彼一人に権力を握らせておいたりしたら、彼の行動にブレーキをかけることなどできない。それなら現場にいて彼の行く手を阻む方がずっと利口ではないか」「彼の政策が非道徳的であることは明らかだったし、私は1935年頃から疑念を持ち始めていた。そして教会の弾圧、[[ゲシュタポ]]、ユダヤ人問題といった非合法的な事柄や一般的良識に反するその他諸々に関して機会あるごとにヒトラーに抗議した。公私の区別なく、本人に面と向かって反論したのだ。信じてもらえるかは別として、私はそれをやった唯一の人間だ。聖職者、政治家、科学者、実業家の誰一人として私が公私にわたって彼に言ったことを彼に言おうとしなかった「私は彼が戦争をしようとしていると察知して経済相を辞任した。ヒトラーは無任所大臣のポストに留まるなら辞表を受理すると言った。彼は自分の犯罪的な政府と国際的に有力で信用される経済学者・銀行家 ―つまり私― との間に対立がないことを世界にアピールしたがっていたのだ。私がこの条件を呑まねば彼は辞表を受理しなかった。さらに私は国立銀行から国への融資も停止した。それ以上私になにができたのだ。どこが問題だというのかね」{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=162-168}}。
何故[[トーマス・マン]]のようにドイツを出なかったのかという質問に対しては「祖国を離れた人々は何か国民のためになることをしたのだろうか。トーマス・マンは何の役にも立っていない。」と一蹴した{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=169}}。
 
何故[[トーマス・マン]]のようにドイツを出なかったのかという質問に対しては、第二次世界大戦前にアメリカへの亡命を企てていたものの、それに失敗していた事実があるにもかかわらず、「祖国を離れた人々は何か国民のためになることをしたのだろうか。トーマス・マンは何の役にも立っていない」と一蹴した{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=169}}。
ユダヤ人迫害については次のように述べた。「私は人種的迫害には賛成しなかった。私が経済相と国立銀行総裁を務めていた1933年から1938年まではユダヤ人が経済や金融で不利益を被ることはなかった。その間もナチスはユダヤ人を標的とする迫害や略奪を行っていたが、それは私の管轄外なので責任は負えない。私はユダヤ人の友人をドイツ国外に逃がすことで助けていた。ただユダヤ人問題はいくつか原因があった。もちろんヒトラーは常に反ユダヤ主義者だったが、彼が政権を獲る直前のドイツではユダヤ人が数々の金融不正事件に関与していた。しかもユダヤ人は東方から続々とやって来てドイツに定住し、ビジネスを展開中だった。そのうえユダヤ人の中にはおびただしい数の[[ドイツ共産党|共産党員]]がいた。」「私は部下である一人のユダヤ人に命じてドイツのユダヤ人中央委員会に伝言を届けさせた。その内容はユダヤ中央委員会がユダヤ人の共産党入党を禁じる決議案を採択することを求めたものだった。この部下は数日後に戻ってきたが、残念ながらユダヤ中央委員会は私の勧告にしたがって行動する気はなかった。」{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=156-157}}。
 
ユダヤ人迫害については次のように述べた。「私は人種的迫害には賛成しなかった。私が経済相と国立銀行総裁を務めていた1933年から1938年まではユダヤ人が経済や金融で不利益を被ることはなかった。その間もナチスはユダヤ人を標的とする迫害や略奪を行っていたが、それは私の管轄外なので責任は負えない。私はユダヤ人の友人をドイツ国外に逃がすことで助けていた。ただユダヤ人問題はいくつか原因があった。もちろんヒトラーは常に反ユダヤ主義者だったが、彼が政権を獲る直前のドイツではユダヤ人が数々の金融不正事件に関与していた。しかもユダヤ人は東方から続々とやって来てドイツに定住し、ビジネスを展開中だった。そのうえユダヤ人の中にはおびただしい数の[[ドイツ共産党|共産党員]]がいた「私は部下である一人のユダヤ人に命じてドイツのユダヤ人中央委員会に伝言を届けさせた。その内容はユダヤ中央委員会がユダヤ人の共産党入党を禁じる決議案を採択することを求めたものだった。この部下は数日後に戻ってきたが、残念ながらユダヤ中央委員会は私の勧告にしたがって行動する気はなかった」{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=156-157}}。
ここまで聞いたゴールデンソーンが「ある組織がそのメンバーに政治思想の自由を禁じるのは市民的自由への侵害であると思う。貴方のユダヤ中央委員会への勧告はそもそもファシズム的ではないか」と追及すると、シャハトはむっとした様子になって「もちろん私は信仰の自由と同じく政治思想の自由も認めている。しかし[[共産主義]]は例外だ。これだけは認めてはならない。私がやろうとしたことはユダヤ人が共産主義に染まらないようにしたに他ならない」「私が不安なのは君たちアメリカ人が先の大戦と同じ轍を踏むのではないかということだ。つまり君たちがドイツを引き揚げ、ヨーロッパを後にすれば[[ソビエト連邦|ソ連]]が好き勝手にふるまうようになるということだ。そうなれば民間事業や個人の自由はナチ党政権と同程度に侵害されるだろう。恐ろしい!」と返答した{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=157}}。
 
ここまで聞いたゴールデンソーンが「ある組織がそのメンバーに政治思想の自由を禁じるのは市民的自由への侵害であると思う。貴方のユダヤ中央委員会への勧告はそもそもファシズム的ではないか」と追及すると、シャハトはむっとした様子になって「もちろん私は信仰の自由と同じく政治思想の自由も認めている。しかし[[共産主義]]は例外だ。これだけは認めてはならない。私がやろうとしたことはユダヤ人が共産主義に染まらないようにしたに他ならない」「私が不安なのは君たちアメリカ人が先の大戦と同じ轍を踏むのではないかということだ。つまり君たちがドイツを引き揚げ、ヨーロッパを後にすれば[[ソビエト連邦|ソ連]]が好き勝手にふるまうようになるということだ。そうなれば民間事業や個人の自由はナチ党政権と同程度に侵害されるだろう。恐ろしい」と返答した{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=157}}。
共産主義には強い拒絶感を示し、「ナチズムより[[ボルシェヴィキ|ボルシェヴィズム]]の方がはるかに危険だと思う。確かにボルシェヴィキは民族根絶やしを目論んだことはないが、この一点を除けば、民間企業軽視など、極左の方が人の道から外れている。」「ソ連占領地域では財産を無償で接収する法律が既に公布されている。ザクセン州にある5000の製造業者が無償で財産を奪い取られた。私有財産制度を廃止すれば社会生活の根幹が揺らいでしまうというのに。」「他人の財産に手を出すのは犯罪だ。この手口はボルシェヴィキとヴェルサイユ条約によって採用された。これほど大きな過ちはない。」と述べた{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=179}}。
 
共産主義には強い拒絶感を示し、「ナチズムより[[ボルシェヴィキ|ボルシェヴィズム]]の方がはるかに危険だと思う。確かにボルシェヴィキは民族根絶やしを目論んだことはないが、この一点を除けば、民間企業軽視など、極左の方が人の道から外れている「ソ連占領地域では財産を無償で接収する法律が既に公布されている。ザクセン州にある5000の製造業者が無償で財産を奪い取られた。私有財産制度を廃止すれば社会生活の根幹が揺らいでしまうというのに「他人の財産に手を出すのは犯罪だ。この手口はボルシェヴィキとヴェルサイユ条約によって採用された。これほど大きな過ちはない」と述べた{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=179}}。
ゴールデンソーンが[[ヴァルター・フンク|フンク]]とヘーメンから聞いた話としてシャハト支配下の経済省がユダヤ人を経済的の追い詰める政策を行ったことによってユダヤ人迫害が強まったと指摘すると、シャハトは次のように述べて反論した。「フンクは自分の罪を私に着せようとしているのだ。ヘーメンのことは話に聞いているが、彼は信用できる人物ではない。私が自ら公布した法律を反ユダヤ主義法と称したことはない。たしかにユダヤ人が公職に就くことや特定の事業分野に占めるユダヤ人の割合を制限する法律を一つだけ公布したと思うが、それはヒトラーに命令されて、やむなく公布したのだ。しかしそれは理不尽と呼べるほどの内容ではなかったし、迫害とは違うと思う」{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=170}}。
 
ゴールデンソーンが[[ヴァルター・フンク|フンク]]とヘーメンから聞いた話としてシャハト支配下の経済省がユダヤ人を経済的の追い詰める政策を行ったことによってユダヤ人迫害が強まったと指摘すると、シャハトは次のように述べて反論した。「フンクは自分の罪を私に着せようとしているのだ。ヘーメンのことは話に聞いているが、彼は信用できる人物ではない。私が自ら公布した法律を反ユダヤ主義法と称したことはない。たしかにユダヤ人が公職に就くことや特定の事業分野に占めるユダヤ人の割合を制限する法律を一つだけ公布したと思うが、それはヒトラーに命令されて、やむなく公布したのだ。しかしそれは理不尽と呼べるほどの内容ではなかったし、迫害とは違うと思う」{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=170}}。
 
そして最後にシャハトは「ヒトラーには忍耐力も理解力もなかった。私は彼の政策にそういう要素を盛り込もうと奮闘したが、失敗に終わった。それが私の悲劇の人生だ。しかたがない。いままで生きてきてこれほど惨めなことはない。私が戦争を支持したことはない。戦争は勝っても負けても人道に対する罪だ。今手にしているこの雑誌によると月はいずれ地球に落ちてくるそうだが、その日が来るまで我々は世界をもっと住みよい場所にしようと努力しなければならない。今はそういう心境だ」と述べた{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=181-182}}。
 
ゴールデンソーンはシャハトの印象を次のように述べた。「彼は自分の発言を批判されたり、疑われたりすることが耐えられないようだ。私が時折彼の身の潔白や邪心の無さをあからまさに疑ったりすると、彼はいらだち、甲高い声を張り上げることもあった。例によって彼は怒れる無実の人間を気どり、律義な銀行家としては憤懣やるかたないという態度を取っている」{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=171}}。
 
==邦訳著書==