「李承晩」の版間の差分

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[[1954年]]10月14日には「韓国の生徒達へ日本帝国主義の侵略性とその韓国への悪意を教えるよう命令した。これは韓国経済を独占を望む日本の陰謀への対抗措置で教師・大学教授に命じて生徒を激動させようとするもの」と発表させた<ref>http://ironna.jp/article/2232</ref>
 
1954年当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていた。しかし、生涯大統領を望む李承晩及び与党[[自由党 (大韓民国)|自由党]]は「初代大統領に限って三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。[[11月27日]]の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になった。可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、つまり136票が必要だった。よってわずか1票届かず、改憲案は否決されるはずだった。しかし、李派の国会議長は、135.33票とは社会通念上の概念である[[四捨五入]]を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えているとして改憲案の可決を宣言した('''[[四捨五入改憲]]''')。
 
[[1956年]]、80歳を過ぎた李が三選を狙った大統領選挙に際して、民国党を中心とする野党勢力は「やってられない、(政権を)変えてみよう」をスローガンに統一戦線を組み、「[[民主党 (韓国 1955)|民主党]]」を結成した。一方、自由党は「替えても変わらにゃ、長老(李大統領)がマシ」というスローガンで対抗した。