「昌義之」の版間の差分

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6年([[507年]])4月、蕭衍は[[曹景宗]]と[[韋叡]]に20万の軍を率いさせて鍾離城の救援に向かわせた。梁軍は北魏軍と会戦して撃破し、元英や楊大眼らは敗走していった。義之は軽装の兵を率いて洛口まで追撃して帰還した。功績により軍師将軍に進み、持節・督青冀二州諸軍事・征虜将軍・青冀二州刺史に転じた。正式な任を受けないうちに、督南兗兗徐青冀五州諸軍事・輔国将軍・南兗州刺史に転じた。禁制品を持ち出した罪に問われて弾劾を受けた。朱衣直閤・左驍騎将軍となり、太子右衛率に転じ、越騎校尉・仮節を兼ねた。8年([[509年]])、持節・督湘州諸軍事・征遠将軍・[[湘州]]刺史として出向した。9年([[510年]])、召還されて、征遠将軍のまま司空臨川王司馬となった。10年([[511年]])、右衛将軍の位を受けた。13年([[514年]])、左衛将軍に転じた。
 
この冬、蕭衍は太子右衛率の康絢に軍を動員させて荊山堰を作らせた。14年([[515年]])、北魏の李曇定が軍を率いて荊山に迫り、堰を決壊させようとしたため、義之は仮節を受けて、太僕卿の魚弘文・直閤将軍の曹世宗・徐元和らを率いて康絢の救援に向かった。軍が到着しないうちに、康絢らは北魏軍を撃破していた。北魏の李平が石を攻撃し、梁の直閤将軍の趙祖悦を包囲したため、義之は朱衣直閤の王神念らを率いて救援に向かった。王神念は石の浮橋を攻撃したが落とせず、援軍の進軍がとめられたため、石は北魏の手に落ちた。義之は軍を返すと、敗戦の罪を問われたが、蕭衍は義之が功臣であるために不問とした。
 
15年([[516年]])、再び使持節・都督湘州諸軍事・信威将軍・湘州刺史となった。この年のうちに都督北徐州縁淮諸軍事・平北将軍・北徐州刺史に転じた。営道県侯に改封された。[[普通 (梁)|普通]]3年([[522年]])、召還されて護軍将軍となった。4年([[523年]])10月、死去した。散騎常侍・[[車騎将軍]]の位を追贈された。[[諡]]は烈といった。