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[[1923年]][[9月1日]]の[[関東大震災]]では米太郎の工場も全焼の被害を受けるが、今度は震災復興に伴う鉄鋼需要に注目。大谷製鋼所を設立し、建築関係の鉄鋼製品の製造で利益を挙げた。更に材料の特殊鋼製造にも着手し、[[1939年]]に大谷製鐵を設立。翌年には大谷製鐵・東京ロール製作所・大谷製鋼所が合併し、[[大谷重工業]]となった。加えて[[満州]]にまで進出し、当時の「鉄鋼王」とまで呼ばれた。
 
[[大東亜太平洋戦争]]では満州地域での事業を失うなど損害を受けたものの、[[朝鮮特需]]で大谷重工業にも活気が戻る。余勢を駆って[[星製薬]]を傘下に収め、同社の本社工場跡地に[[TOCビル]]を計画(完成は米太郎死後の[[1970年]])するなど、企業の買収や再建にまで手を広げた。[[1964年]]、[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]の開催が決まり、東京の宿泊地不足に対して米太郎は[[ホテルニューオータニ]]を建設。ホテルは開業したものの、直後に大谷重工業の経営不振が露呈。開業の翌年には社長の座を追われ、大谷重工業も[[八幡製鐵]]が経営支援に乗り出して実権を失う。
 
[[1962年]]、富山県立大谷技術短期大学(現:[[富山県立大学]])の設立のため私財を寄付した。