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'''玄冶店'''(げんやだな)は、[[江戸]]・日本橋界隈の古くからの地名もしくは通りの俗称名である。
 
幕府医官である岡本玄冶([[1587年]] - [[1645年]][[5月15日]])の拝領屋敷跡一帯を指した。[[江戸時代]]の新和泉町、現在の[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋人形町]]3丁目のあたりである<ref>『東京都の地名』日本歴史地名大系13 平凡社</ref>。ここから「[[橘家圓喬 (4代目)|玄冶店の師匠]]」、「[[玄冶店 濱田家]]」などの呼び名が生まれた
 
[[徳川氏|徳川家]]の[[御典医]]であった[[岡本玄冶]]([[1587年]] - [[1645年]][[5月15日]])の拝領屋敷跡一帯を指した。玄冶は3代将軍[[徳川家光|家光]]が[[天然痘|痘瘡]]を病んだ際に全快させて名を高め、幕府から拝領した土地に[[借家]]を建てて[[庶民]]に貸したことから一帯が「玄冶店」と呼ばれた。与三郎とお富で有名な「[[与話情浮名横櫛]](よわなさけうきなのよこぐし)」の舞台として知られる。[[落語家]]であった四代目[[橘家圓喬 (4代目)|橘家圓喬 ]]は当地に居住し、「玄冶店の[[師匠]]」と呼ばれていた。また、料亭「[[玄冶店 濱田家]]」などの呼び名が生まれた。
 
== 関連作品 ==