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'''陳敏'''(ちんびん、? - [[307年]])は、[[中国]]の[[西晋]]の人物。[[字]]は'''令通'''。廬江の人。
 
== 生涯 ==
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司馬越が[[豫州]]刺史[[劉喬]]の討伐に向かうと、陳敏は兵を率いて合流した。だが、司馬越軍は蕭県で敗れた。陳敏は、中原が大乱していたことから、東へ戻ることを請い、兵を収容して歴陽に拠った。呉王の常侍である[[甘卓]]が洛陽からやって来ると、陳敏は甘卓へ皇太弟の命令と偽り、自らを揚州刺史に拝させた。また、江東貴族の[[顧栄]]ら40人余りを将軍や郡守に任じ、顧栄らは表面上は命令に従った。陳敏は自分の息子に甘卓の娘を娶らせ、お互いの関係を強化した。
 
12月、陳敏は挙兵し、部下に推戴させて都督江東軍事・[[大司馬]]となり、楚公となり十郡を封じ、[[九錫]]を加えて上尚書に列した。恵帝からの詔を偽り、沔水・漢水より北上して恵帝を迎え入れることを宣言した。揚州刺史の[[劉機]]と、丹陽太守の[[王広]]らはこれに反発し、みな官位を捨てて逃走した。陳敏の弟である[[陳昶]]は、顧栄らに異心があることを知っていたので、彼らを誅殺することを陳敏に勧めが、陳敏は従わなかった。陳昶は精鋭数万を率いて烏江に拠った。陳敏はさらに弟の[[陳恢]]に[[銭端]]らを率いさせ、南の[[江州]]を攻撃させた。江州刺史の[[応邈]]は[[弋陽郡|弋陽]]へ逃走した。弟の[[陳斌]]は東方の諸郡を攻略して、呉越の地を占拠した。
 
[[307年]]、司馬越の軍諮祭酒を務める[[華譚]]は、陳敏が自ら官署を置いたと聞いた。さらに顧栄を始めとした江東貴族が、陳敏から官爵を受けたとも聞いた。華譚は顧栄らに書面を送り、陳敏に従うのを止める様強く諫めた。
 
陳敏は平凡な人物で、遠大な計略など無かった。一旦は江東に割拠したが、刑法も政治も明らかで無かったので、英俊な名士は服従しなかった。また、陳敏の子弟は凶暴で、多くの災いが降りかかった。[[周玘]]・顧栄らは、常に禍いを受けることを恐れており、華譚からの文書を受け取ると、みな深く後悔した。 周玘と顧栄は、密かに使者を出し、征東大将軍の劉準へ「兵を派遣して長江に臨み、陳敏を圧迫するならば、我らが内応します。」と伝えた。劉準は揚州刺史の劉機と寧遠将軍の[[衡彦]]らを歴陽に出陣させた。陳敏は、弟の陳昶と将軍の[[銭広]]に、烏江防衛を命じた。また弟の[[陳閎]]を歴陽太守に任じ、牛渚の防衛に当たらせた。
 
銭広の家は[[長城]]にあり、周玘と同郷であった。周玘は密かに使者を送り、銭広に陳昶を殺害するよう指示した。銭広は配下の[[何康]]を派遣し、陳昶へ書を送り「私は配下の兵を投げ出してでも、あなたの指揮に入りたい。」と述べた。陳昶が頭を下げて書を読んでいる最中に、何康は刀を振るって陳昶を斬った。また、州内では既に陳敏を殺したと触れ回り、逆らうものは三族皆殺しに処すと告げた。銭広は先に兵を勒して、朱雀橋に駐屯し橋の南に布陣した。周玘と顧栄は甘卓の説得に当たり、甘卓は遂に陳敏に背くことを決めた。陳敏は1万人余りの兵を率いて、甘卓と交戦したが、まだ河を渡る前に顧栄が白羽扇を用いて指揮を取り、陳敏軍を潰滅させた。陳敏は単騎で東に逃げて、江乗に至ったが、義兵に斬り殺された。彼の母と妻子は、みな処刑された。ここにおいて会稽諸郡は一気に立ち上がり、陳敏の弟たちを全員殺した。