「マルティン・ルター」の版間の差分

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[[1521年]]4月、ルター支持の諸侯たちや民衆の声に押される形で、ルターの[[ヴォルムス帝国議会 (1521年)|ヴォルムス帝国議会]]への召喚が行われた。皇帝[[カール5世_(神聖ローマ皇帝)|カール5世]]は何よりルター問題からドイツが解体へ至ることを恐れていた。議会において、ルターは自分の著作が並べられた机の前に立った。ルターはまず、それらの著作が自らの手によるものかどうかを尋ねられ、次にそこで述べられていることを撤回するかどうか尋ねられた。ルターは第一の質問にはうなずいたものの、第二の質問に関してはしばらくの猶予を願った。熟考したルターは翌日、自説の撤回をあらためて拒絶。「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と述べたとされる。
 
議会が処分を決定する前にルターは[[ヴォルムス]]を離れ、その途上で消息を絶ったように見せかけて、[[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|賢公フリードリヒ3世]] の元に逃げ込み、[[ヴァルトブルク城]]にかくまわれた。[[1521年]][[5月25日]]にカール5世の名前で発布されたヴォルムス勅令はルターをドイツ国内において[[帝国アハト刑|法律の保護の外に置くこと]](帝国追放)を通告し、異端者としてルターの著作の所持を禁止した。
 
ルターはそこで「ユンカー・イェルク」(騎士ゲオルク)の偽名を用いて一年余りをすごした。ここでの生活は時として精神的な試練であったとルターは言っている。しかしルターはそこで十分に思索と著述に専念することができた。ここで有名な[[新約聖書]]のドイツ語訳が行われた。聖書をドイツ語に訳したのはルターが初めてではなかったが、[[デジデリウス・エラスムス|エラスムス]]の[[ギリシア語]]テキストをもとにしたこの聖書は、後にドイツ語の発達に大きな影響を与えるほど広く読まれることになる。同時にこの時期に修道生活を否定する論文も著述している。