「劉安世」の版間の差分

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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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哲宗が親政を始めた[[1094年]]、新法派の[[章惇]]が宰相に任ぜられると、その不可を上奏した。これが僭越とみなされ、知南安軍、小府小監、分司河南と徐々に左遷された。[[1096年]]には元祐4年の一件を蒸し返され、新州別駕・英州安置にまで落とされた。章惇はさらに安世を誅殺しようとしたが、偶然が重なり事なきを得て、[[梅州]]に移された。[[元符]]2年(1099年)9月、劉氏は皇后となった。その後、劉安世は梅州で捕らえられ、囚人護送車で開封へ送られた。途中、哲宗の崩御により死刑を免れた。
 
[[徽宗]]が即位すると、赦免されて集賢殿修撰・知鄆州・知真定府となったが、[[蔡京]]が宰相となると[[峡州]]に左遷され、[[1102年]]には元祐党石碑(旧法派を「奸人」として裁くための名簿)に入れられた。のちに宮中に復帰して龍図閣直学士となり、78歳で没した。'''忠定'''と謚された。
 
== 学問と著作 ==