「ゲルマン人」の版間の差分

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[[375年]]、[[フン族]]に押されてゲルマン人の一派である[[ゴート族]]が南下し、[[ローマ帝国]]領を脅かしたことが大移動の始まりとされる。その後、多数の[[ゲルマニア]]出身の民族が南下をくり返しローマ帝国領に侵入した。移動は侵略的であったり平和的に行われたりしたが、原因として他民族の圧迫や[[気候変動]]、それらに伴う経済構造の変化があげられている。
 
この後すぐに[[西ローマ帝国]]は滅亡しにおいしまったため、古代西ローマによる支配体制が崩壊したため西方正帝廃止と民族大移動との関連性が考えられている。しかしフン族の侵攻を食い止めたのは、ローマの支配を受け入れて[[傭兵]]となっていたゲルマン人であったように、帝政末期の西ローマ帝国が実質的にはゲルマン系将軍によって支えられていた実情や、西ローマ帝国のローマ人がギリシャ人(東ローマ帝国)の支配から逃れるためにゲルマン人の力を借て西方正帝を廃止した事情なども考慮すると、今日におけるヨーロッパ世界の成立における意義は大きいと思われる。また、最近の研究では正帝廃止後の西欧における西ローマ帝国の連続性が注目されている。西ローマ帝国に発生したゲルマン王国の住人や王宮高官は、そのほとんどが皇帝統治時代からのローマ系住人のままであり、例外的にゲルマン化が進んだとされるフランク王国においてすら住民の8割はローマ人であった。フランク王国において宮廷人事に占めるローマ人の割合が半数を下回るようになるのは、8世紀末の[[カール大帝]]の時代になってからのことである。
 
ゴート人などの東側の'''ゲルマン人'''は、[[ローマ人]]などに同化されたが、後発の西側のゲルマン人はローマ化しつつも一定の影響力を維持し、ドイツ、[[イギリス]]などの[[国家]]の根幹を築いた。なお[[北ゲルマン人]]の一つである[[ノルマン人]]は、大移動に参加しなかった。
 
この後も、ヨーロッパには[[スラヴ人]]や[[マジャル人|マジャール人]]([[ハンガリー人]])といった民族が押し寄せ、現在のヨーロッパの諸民族が形成されていくことになる。