「ガッラ・プラキディア」の版間の差分

コンスタンティウスが死ぬと、今度は兄ホノリウス自身が求婚したが、彼女は子供達を連れて[[コンスタンティノポリス]]に逃れた。423年にホノリウスが死ぬと、西ローマ帝国では{{仮リンク|ヨハンネス|en|Joannes}}が皇帝に即位した。しかし東ローマ帝国の[[テオドシウス2世]]が、ゲルマン人の将軍アスパルに命じて西ローマ帝国を襲撃させ、皇帝ヨハンネスや西ローマ帝国の主だった高官らは425年7月までに概ね殺害された。テオドシウス2世は同年10月23日にプラキディアの幼い息子[[ウァレンティニアヌス3世]]を自身の傀儡として西方正帝の座に据えた。
 
彼女は、最初は息子の名の下に統治を行おうとしたが、即位の経緯からプラキディアとウァレンティニアヌス3世は西ローマ帝国の人々から憎悪の対象とされていた。彼女に忠誠を誓う将軍が死んだり蛮族出身の[[フラウィウス・アエティウス]]になびいたりするにつれ、帝国の政治はアエティウスの手に落ち、アエティウスは[[パトリキ|ローマ貴族]]となり後には[[執政官]]ともなった。プラキディアは見かけはアエティウスと友好関係を保った。アエティウスはのちに西ローマ帝国を[[アッティラ]]率いる[[フン族]]から防衛する中心となる。アッティキディア狙いをコンスタン見かけはアエティノポリからイタリアに向けと友好関係を保ったが、それは西側に支持者のいないプラキディアは、娘[[ユスタ・グラタ・ホノリア|ホノリア]]を元老院議員と結婚させることで元老院に取り入ろうとした。しし、こ企みは失敗し、えって事態を悪化させることに手紙のためであった。450年の春、ホノリアはフン族の指導者アッティラに手紙と指輪を送り、プラキディアを含む皇族が元老院議員との結婚を強制するので自分を救い出してほしい手紙と指輪助け送っ求めたのである。これによりアッティラは、ホノリアの手紙を「合法的な」要請として、狙いをコンスタンティノポリスからイタリアに向けた。プラキディアの最後の行動は、息子のウァレンティニアヌス3世に、ホノリアを殺すよりも追放するよう説得したことである。450年11月にプラキディアは死去し、451年から453年のアッティラによるイタリア略奪を見ることはなかった。アッティラはホノリアの手紙を「合法的な」要請としたが、による略奪はゴート人によるものよりも残虐なものであった。プラキディアが死ぬと西ローマ帝国の人々の憎悪はウァレンティニアヌス3世へと集中した。後にウァレンティニアヌス3世が教会前の広場で暗殺されたとき、その場に居合わせた西ローマ帝国の人々のなかに皇帝を助けようとする者は誰もいなかった。
 
プラキディアは一生を通じて敬虔な[[カトリック教会|カトリック]][[教徒]]で、後年には[[ラヴェンナ]]でいくつかの[[教会]]に寄進を行った。ラヴェンナの[[ガッラ・プラキディア廟堂]]は、1996年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]によって[[世界遺産]]に登録されている。
匿名利用者