「ガッラ・プラキディア」の版間の差分
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コンスタンティウスが死ぬと、今度は兄ホノリウス自身が求婚したが、彼女は子供達を連れて[[コンスタンティノポリス]]に逃れた。423年にホノリウスが死ぬと、西ローマ帝国では{{仮リンク|ヨハンネス|en|Joannes}}が皇帝に即位した。しかし東ローマ帝国の[[テオドシウス2世]]が、ゲルマン人の将軍アスパルに命じて西ローマ帝国を襲撃させ、皇帝ヨハンネスや西ローマ帝国の主だった高官らは425年7月までに概ね殺害された。テオドシウス2世は同年10月23日にプラキディアの幼い息子[[ウァレンティニアヌス3世]]を自身の傀儡として西方正帝の座に据えた。
彼女は、最初は息子の名の下に統治を行おうとしたが、即位の経緯からプラキディアとウァレンティニアヌス3世は西ローマ帝国の人々から憎悪の対象とされていた。彼女に忠誠を誓う将軍が死んだり蛮族出身の[[フラウィウス・アエティウス]]になびいたりするにつれ、帝国の政治はアエティウスの手に落ち、アエティウスは[[パトリキ|ローマ貴族]]となり後には[[執政官]]ともな
プラキディアは一生を通じて敬虔な[[カトリック教会|カトリック]][[教徒]]で、後年には[[ラヴェンナ]]でいくつかの[[教会]]に寄進を行った。ラヴェンナの[[ガッラ・プラキディア廟堂]]は、1996年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]によって[[世界遺産]]に登録されている。
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